奉行職罷免
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/12 04:11 UTC 版)
享保18年(1733年)秋には西国は豊作となり、大森は細井安明と長崎在勤の業務を交代して長崎を出た。この日、長崎の住民の多くが恩人である大森を見送るために、桜馬場・一ノ瀬・日見峠などに詰め掛けたという。その人数は、史料によっては1000人とも数万人であったとも記されている。 しかし山城守は江戸に戻った後、翌享保19年(1734年)2月4日に御役御免となった。それを知った長崎市民は騒然となり、大いに悲しんだ。これは、買占めをしていた商人が江戸で大森を讒訴した、幕府の資金を幕府に伺うことなしに米の購入に使ったからだ、と様々な噂が流れたが、長崎の住民には真相は分からなかったという。 『享保年録』によれば、罷免の理由は、「(1)米の購入により、輸出用の銅の買い入れ資金が不足となったこと。(2)貿易仕法改正命令に対する、相手側(唐・オランダ)の承諾書の提出遅滞。(3)唐船の滞留」となっている。 また、『大日本貨幣史』には、「享保十九年 交易ニ充ル銅ヲ乏シクシタルヲ以テ長崎奉行を罰ス」とあり、大森罷免の理由を、銅の買入資金を米穀購入に使い、これによって貿易を停滞させたこととしている。
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