奉行衆の状況からの考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/07 19:40 UTC 版)
奉行衆の中に、公方・足利成氏の偏諱を受けた二階堂成行・町野成康という人物名が見られる。二階堂氏・町野氏ともに最も家格の高い奉行衆だったが、以前には公方の偏諱を受けた事例がない。鎌倉府では公方との関係は職制に基づいたが、古河府では個人的な主従関係として再構築された結果と考えられる。また、16世紀前半に成立した『里見家永正元亀中書札留抜書』から、鎌倉府奉行衆の子孫が奉公衆として引き続き古河公方に仕えていたこと、鎌倉府の礼的秩序は当時の実態と異なってきていたが、形式的には引き続き重視されていたことが分かる。 すなわち、「鎌倉府の構造によった体制から、公方との個人的な関係に基づく近習を中心とした体制へ移行」し、行政機能は縮小させながらも、「鎌倉府体制の身分秩序は鎌倉府解体後、形を変えながらも東国社会に残存した」と評価される。その代表例として、享徳の乱以後も「公方-管領体制に代表される東国の身分秩序が、古河公方と上杉氏・後北条氏等との関係を規定する」ことが挙げられる。あるいは、古河府では「鎌倉府体制の身分秩序」を維持するための組織基盤が、公方自身の権威に強く依存するようになったとも言える。なお、このような奉行衆の変化は、文安4年(1447年)、足利成氏が鎌倉府を再興した時には既に見られていた。永享の乱による鎌倉府組織の崩壊が契機になったと考えられており、古河府はその状況を受け継いだとされる。
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