織田家奉行衆としての働き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 22:58 UTC 版)
「長谷川秀一」の記事における「織田家奉行衆としての働き」の解説
天正7年(1579年)5月27日の安土宗論では浄厳院の警備担当の一人に名を連ねる。宗論に敗れた日蓮宗側は詫証文を提出したが、その宛先は菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の3人となっている。以後、菅屋・堀と組んで3人で仕事をする機会が何度かあり、伴天連屋敷地造営の奉行や安土の馬場建設の奉行などを3人で務めた。 天正8年(1580年)12月には猪子高就・福富秀勝・西尾吉次と4人で高天神城包囲中の徳川家康の陣に派遣され、3日ほどにわたって現場を視察した後、同月22日に帰国した。 天正9年(1581年)4月13日、野々村正成と共に領地を大きく加増される。同年12月5日に近江国で美人局を行って東善寺の延念に強請をかけた八という男の一味を野々村と共に捕縛し、糾問にかけた上で成敗したが、野々村と長谷川両名が近江の信長直轄領で代官職を務めていたことが分かる。また、両名は佐久間信盛追放後の近江の栗太郡・野洲郡の代官も務めていた。 天正10年(1582年)1月15日の左義長の時には菅屋長頼・堀秀政・矢部家定と秀一の4人で馬廻衆・小姓衆を引率して凱旋した。同年3月には信長に従って菅屋長頼・堀秀政・矢部家定・福富秀勝と秀一の5人が馬廻衆を率いて甲州征伐に出陣したが、既に織田信忠によってほぼ武田家の討伐は完了していたために戦闘はなく、秀一が行った仕事は甲府で行った武田勝頼側近の秋山万可斎・昌成(摂津守)親子の処刑ぐらいであった。 のち安土に戻って同年5月19日には摠見寺で行われた徳川家康歓待の宴に参加した。20日には高雲寺で家康の饗応を丹羽長秀・菅屋・堀と共に行っている。21日には家康が大坂の堺を見物に行くことになったが秀一はその案内役として西尾吉次と共に家康一行に付けられた。6月1日には堺の津田宗及宅の茶会に家康・穴山梅雪と共に参加している。
※この「織田家奉行衆としての働き」の解説は、「長谷川秀一」の解説の一部です。
「織田家奉行衆としての働き」を含む「長谷川秀一」の記事については、「長谷川秀一」の概要を参照ください。
- 織田家奉行衆としての働きのページへのリンク