織田家家督と体制の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 05:19 UTC 版)
織田家の後継者問題では、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が互いに後継者の地位を主張し引かなかったため、秀吉がその隙をついて勝家・秀吉ら宿老たちが事前に信長の嫡孫である三法師を御名代とすることで双方が了解した。勝家も秀吉の弔い合戦の功績に対抗できなかった。『多聞院日記』にも「大旨は羽柴のままの様になった」と記している。いっぽう『川角太閤記』では、秀吉が三法師を擁立し勝家が信孝を後継者に推して対立し、秀吉が席を立ち、残された3人での話し合いで勝家も矛を収めて三法師の家督擁立が決まったとしている。4日後、4重臣が対面することになったが、その間に秀吉が玩具で三法師を手なづけて、対面の場に三法師を抱いて秀吉が現れ、それに3重臣が平伏する形となったと記している。 こうした通説に対して柴裕之は、そもそも信長の後継者である信忠に何かあれば、その嫡男である三法師が家督を継承することは信長存命中からの方針で家中に異論がなく(勝家が信孝を推したとするのは『川角太閤記』の創作とする)、清洲城で会議が開かれたのも三法師が滞在している城だからであり、会議で問題になったのは三法師が成人するまで「名代」を設置するか否かで、信雄と信孝の対立の焦点もそこにあったとしている。信忠の同母弟であるが光秀討伐の功績のない信雄と、光秀討伐の功績はあるが三法師との血縁が薄く、三法師の後継者としての貴種性を揺るがしかねない信孝とでは、いずれも家中の納得を得られないため単独の名代の設置は回避された、と柴は説いている。つまり柴の指摘に従えば、清洲会議は「信長の後継者を決める」会議ではなく、信長の後継者である三法師がいる清洲城に集まって「三法師を支える体制を決める」会議であったということになる。 結果として三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人となり、傅役として堀秀政が付き、これを執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制ができた。この体制に協力する形で家康も参加していた。
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