信長の後継者
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天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで勝利し、そのまま岩村城攻めの総大将として出陣(岩村城の戦い)。夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1,100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将・秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城させた。以後、一連の武田氏との戦いにおいても、大いに武名を上げていくこととなる。 天正4年(1576年)11月28日、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、信長正室濃姫を養母として岐阜城主となった。また、濃姫の弟である斎藤利治が信忠付きの側近(重臣)となる。同年に正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官し将軍格となることを目指した。足利義昭は織田政権下でも備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍になるしかなかった。また、この官職は越後守護家でもある上杉家との対抗上、有意義であったともされる。 天正5年(1577年)2月、雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮して、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。その功績により10月15日には従三位左近衛権中将に叙任される。この頃より、信長に代わり総帥として諸将の指揮を執るようになる。12月28日には信長が持っていた茶道具のうちから8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。 天正6年(1578年)、播磨国の上月城を奪還すべく、毛利氏の当主・毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景・宇喜多忠家・村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を包囲した。信長も上月城救援の為、信忠を総大将に明智光秀、丹羽長秀・滝川一益ら諸将を援軍に出し、三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。 天正6年(1578年)10月4日、越中国での月岡野の戦いに義理の叔父にあたる斎藤利治が神保長住の援軍総大将として信長より勅命派遣、斉藤氏の加治田衆を筆頭に、美濃衆・尾張衆の信忠付きの援軍を送っている。斎藤利治に対しては労を労い「ご苦労の段とお察しする」と書状を送っている。 また、同年から翌年の天正9年(1579年)にかけて、摂津で勃発した荒木村重の謀反(有岡城の戦い)の鎮圧にも出陣した。 天正8年(1580年)、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放されたため、美濃・尾張の2か国における信忠の支配領域が広がった。
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