信長の後継者とは? わかりやすく解説

信長の後継者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 03:28 UTC 版)

織田信忠」の記事における「信長の後継者」の解説

天正3年1575年5月長篠の戦い勝利しそのまま岩村城攻め総大将として出陣岩村城の戦い)。夜襲をかけてきた武田軍撃退して1,100余り討ち取るなど功を挙げ武田家部将秋山虎繁信友)を降して岩村城開城させた。以後一連の武田氏との戦いにおいても、大い武名上げていくこととなる。 天正4年1576年11月28日信長から織田家家督美濃東部尾張国一部譲られてその支配任され信長正室濃姫養母として岐阜城となったまた、濃姫の弟である斎藤利治信忠付き側近重臣)となる。同年正五位下叙せられ、出羽次いで秋田城介任官し将軍格となることを目指した。足利義昭織田政権下でも備後在国征夷大将軍であったため、織田家征狄将軍になるしかなかった。また、この官職越後守護家でもある上杉家との対抗上、有意義であったともされる天正5年1577年2月雑賀攻め中野城落とし3月には鈴木重秀雑賀孫一)らを降す8月には再び反逆した松永久秀討伐総大将となり、明智光秀先陣羽柴秀吉諸将指揮して松永久秀久通父子篭城する信貴山城落とした信貴山城の戦い)。その功績により10月15日には従三位左近衛権中将叙任されるこの頃より、信長代わり総帥として諸将指揮執るうになる12月28日には信長持っていた茶道具のうちから8種類譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。 天正6年1578年)、播磨国の上月城奪還すべく、毛利氏当主毛利輝元10万上の大軍動員し、自らは備中高松城本陣を置き、吉川元春小早川隆景宇喜多忠家村上水軍の61,000人を播磨国に展開させ上月城包囲した信長上月城救援の為、信忠総大将明智光秀丹羽長秀・滝川一益諸将援軍出し三木城包囲中の羽柴秀吉信忠指揮下に入り総勢7万2,000人の織田軍が播磨展開する。しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長上月城からの撤退指示し三木城攻略専念させる篭城する尼子勝久主従降伏し上月城落城した(上月城の戦い)。 天正6年1578年10月4日越中国での月岡野の戦い義理叔父にあたる斎藤利治神保長住援軍総大将として信長より勅命派遣斉藤氏加治田衆筆頭に、美濃衆尾張衆の信忠付き援軍送っている。斎藤利治に対して労を労いご苦労の段とお察しする」と書状を送っている。 また、同年から翌年天正9年1579年)にかけて、摂津勃発した荒木村重謀反(有岡城の戦い)の鎮圧にも出陣した天正8年1580年)、尾張南部統括していた佐久間信盛西美濃三人衆のひとり安藤守就追放されたため、美濃尾張の2か国における信忠支配領域広がった

※この「信長の後継者」の解説は、「織田信忠」の解説の一部です。
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