信長の弟の末裔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:27 UTC 版)
織田信勝系 織田信長の弟・信行(信勝)の子孫は、2家が旗本になっている。信行の孫・昌澄は藤堂高虎や豊臣秀頼に仕え、豊臣家の滅亡後は近江国内に2,000石を与えられて、旗本に取り立てられた。その子・信高は三男・信英に500石を分け与え、旗本として分家させた。 織田信包系 織田信長の弟・織田信包は、関ヶ原の戦いで西軍に属したものの、大名として存続を許された。丹波柏原藩主となり、三男の信則が家督争いのすえに相続したが、孫・信勝のときに無嗣断絶した。ただし、改易に際して信包の四男・信当は幕府から3,000石を与えられて、旗本として召し抱えられた。 なお、信包の長男・信重は父とは別家として伊勢林藩1万石を領有する大名であったものの、父の死後に弟・信則と遺領である丹波柏原3万6千石の相続争いをおこして、改易となった。その子孫は肥後熊本藩細川家の家臣になった。 織田長益系(有楽流) 織田信長の弟で有楽斎こと織田長益は、関ヶ原の合戦で東軍に属し、加増されて摂津味舌3万石の大名となった(味舌藩)。ただし、戦後は大坂城にあって豊臣秀頼の補佐にあたった。豊臣家の滅亡後、長益は隠居し、四男・長政と五男・尚長に各1万石を分け与えた。長政の子孫は大和戒重藩・芝村藩の藩主、尚長の子孫は大和柳本藩の藩主となった。 また、関ヶ原の合戦後、織田長益の長男(庶長子)・長孝は美濃野村藩1万石の大名に取り立てられたものの、その子・長則のときに無嗣改易となった。ただし、長則の弟・長政の子孫は、加賀藩前田家の家臣になった。 なお、長益自身が領有した(支藩を分与後の)味舌藩1万石は、次男(嫡男)・頼長の子である織田長好に継がせる予定であったが、届出を出さないうちに長益が死去してしまったため断絶した。 長好は、有楽流宗家の再興を画策したが、父・頼長が「猪熊事件」への関与や「大坂の陣」での牢人衆との指揮権をめぐる紛争のあげく大坂城退去など、印象が悪かった点もあり実現しなかった。 長益の子で残る三男・俊長だけは父と不和であり、強制的に出家させられたり、勝手に還俗して叱責されたりで長益から所領の分与が得られなかった。のちに肥前鹿島藩主の鍋島直朝に仕えたという。 柳本藩織田家(尚長系)は、宝永6年(1709年)、秀親が朝廷からの使者の御馳走役と同僚への指南役を命じられるが、同役への指導が厳しく、前田利昌の恨みを買い刺殺された。秀綿の代には、明和6年(1769年)1月には百姓が重税に反対して強訴を起こす。享和2年(1802年)12月にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生し、織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。さらに文政13年(1830年)には原因不明の火事により柳本屋敷が全焼する。幕末には信陽が無城から城主格に昇進した。維新の動乱期には、信成は再三にわたって上洛延期を申請し、様子見に徹した。 芝村藩織田家(長政系)は、輔宜の代に幕府領13000石を預けられる。長教の代には預かり地9万3430石を任されるようになった。自領と合わせ10万石を超え織田家としては、岐阜13万石で関ヶ原東軍主力を迎え撃った織田秀信以来の広大な統治領域である。ところが、年貢増徴に対して預かり地における百姓一揆が頻繁に発生し、遂には百姓たちが芝村藩を批判して織田家からの預かり地撤回を奉行所に要求するに至った(「芝村騒動」)。さらに寛政6年(1794年)に芝村藩の代官による不正が発覚し、全ての預かり地召し上げと藩主に差控の処罰を受けた。 藩内においても、明和5年(1768年)末には年貢減免を求める強訴が発生する。安政6年(1859年)には藩の借金は銀2693貫(金換算で5万両。五公五民の1万石大名では、年貢の10年分に相当)という莫大なものになったと言われている。幕末に長易は尊王攘夷派の天忠組追捕にあたったが、その後は中立的立場を取るようになった。 有楽流の織田氏は、信雄系のような特別な待遇(官位や江戸城での席次)は受けられなかったものの、信長以来の勤王の家柄ということや畿内の大名ということもあって、勅使の接待役や崇神天皇陵の補修工事など、名誉ある役目を命じられている。柳本藩は幕末には城主格に昇格した。尚長系、長政系の両家とも、領内での一揆・強訴・暴動がかなり頻繁に起きている。近代に入り、両家ともに華族となり、子爵を与えられた。なお、それぞれ藩主の庶子は渡会や溝口などといった別姓を称し、家臣になった。
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