信長の死・秀吉との講和
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6月2日、高松城攻防戦の最中、信長が京において明智光秀によって討たれる、いわゆる本能寺の変が発生した。いち早く情報を得た秀吉は、光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、安国寺恵瓊に働きかけた。輝元ら毛利側は秀吉から毛利氏の諸将のほとんどが調略を受けていると知らされ、疑心暗鬼に陥り、講和を受諾せざるを得なかった。 6月4日、備中高松城は講和により開城し、城主の清水宗治らは切腹した。また、中国地方の毛利氏支配領域に関しては、秀吉が当初割譲を要求していた美作・備中・伯耆・出雲・備後5ヶ国から、美作・備中・伯耆の三国を割譲することで妥協された。ただし、この時結ばれたのは当面の戦闘を中止するとした停戦協定に過ぎず、輝元と秀吉の講和ではないとする見方もある。輝元は信長の突然の横死、清水宗治の犠牲と引き換えに危機を脱する形となった。 秀吉はその日のうちに撤退し、毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日の5日であったことが、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが輝元の従兄弟・吉川広家の覚書(案文)から確認できる。この時、元春などから秀吉を追撃すべきいう声もあがったが、隆景が誓紙を交わした以上は講和を遵守すべきと主張したため、輝元も追撃を断念したとされるが、兵力からいっても、毛利氏の追撃は無理であったのが実情である。 6月9日、信長の死を知った義昭は隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元は講和を遵守して動かなかった。毛利氏は上方の情報収集は行ったが、領国の動揺を鎮めることで精一杯であり、進攻する余裕はなかった。 6月13日、秀吉が山崎の戦いで光秀を破ると、輝元は秀吉に戦勝を祝うため、安国寺恵瓊を使者として派遣した。だが、輝元は秀吉の戦勝を祝したものの、諸方面の戦闘では譲らず、美作と伊予では羽柴方との戦闘を継続した。 また、秀吉と柴田勝家が覇権を巡って火花を散らし始めると、輝元は双方から味方になるよう誘いを受けた。この間、義昭は勝家から自身の帰京の約束を取り付けると、毛利氏に勝家を支援させるように動き始めたが、輝元は両者の抗争を静観し続けた。 天正11年(1583年)3月、勝家が近江に出陣すると、輝元とともに秀吉を挟撃しようとし、義昭にすすめて輝元に出兵を督促させた。これを受け、4月に義昭は毛利氏に柴田方に加勢し、秀吉を攻撃するように命じた。だが、輝元は「どちらが勝利するか判断できない」という元春や隆景らの意見を重視し、両者との通交を維持して情勢を見極める方針を打ち出した。 同月、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家に勝利すると、秀吉は毛利氏に対して強硬な姿勢を取り、再侵攻をほのめかすようになった。秀吉が恵瓊に宛てた5月7日付の書状では、輝元に美作・備中・伯耆の三国を割譲することなどを条件に講和を迫り、もしこれを拒否した場合は毛利氏を滅ぼす、という旨が記されており、輝元に決断を迫った。 輝元は恵瓊から説得を受けたものの、元春や隆景が領地の割譲に反対し、国境の画定交渉は難航した。加えて、割譲を求められた美作・備中・伯耆の三国では、毛利氏配下の国人たちが領有地域からの退去に抵抗し、その説得のためには安易な妥協はできなかった。美作では、毛利氏配下の草刈氏や中村氏が宇喜多勢の侵攻を撃退しており、輝元自身は秀吉との軍事衝突に突入しても互角に戦えると判断していた。だが、恵瓊は秀吉と戦闘に入った場合、9月16日付の書状では「十に七・八は負ける」と判断しており、輝元に軍事衝突を避けるように説得し続けた。 天正12年1月、秀吉は毛利氏との講和交渉が進まない事に激怒し、明け渡し対象の毛利氏諸城の攻撃を示唆したばかりか、また講和の条件を美作・備中・伯耆の三国の割譲ではなく、当初の美作・備中・伯耆・出雲・備後の5ヶ国割譲に立ち戻ると脅した。前年10月に輝元は叔父の小早川元総と元春の三男・吉川経言を毛利氏の人質として提出していたが、これは秀吉からすれば毛利氏の一時しのぎとしてみなされていなかった。 このとき、秀吉は徳川家康や織田信雄との関係が悪化しており、輝元が軍を率いて上洛し、背後から毛利勢が襲ってくるのではないかという心配にも駆られていた。秀吉は毛利氏が参戦するのを恐れ、小牧・長久手の戦いの間もずっと、宇喜多秀家や因幡衆に警戒させていた。毛利氏もまた、この小牧・長久手の戦いに対してはどちらかと言えば中立的立場であり、積極的な介入は行っていない。 同年11月、秀吉と家康・信雄との講和が成立し、秀吉はさらに強大な勢力を持つようになった。輝元は秀吉が東海から引き上げて西国へと転向し、毛利氏領国へ侵攻することを恐れるようになった。また、同年秋には備前・美作での戦闘は終結し、毛利氏配下の国人たちは退去しつつあった。 天正13年(1585年)1月、輝元は秀吉との国境画定に応じ、毛利氏は安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国7ヶ国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を領有することとなった。輝元は祖父以来の領地の多くを認められ、その所領の総石高は120万5,000石となり、徳川家康、織田信雄らと並ぶ大名となった。 こうして、輝元は秀吉と正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏と織豊政権の戦闘はようやく終結した(京芸和睦)。
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