安国寺恵瓊
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安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧[注釈 2]。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺[注釈 3]の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。
注釈
- ^ 『太閤記』の一場面で、毛利の使者として秀吉に対面し、信長死去に落涙する秀吉に驚く安国寺恵瓊を描いたもの。
- ^ 武家の対外交渉の任を務めた禅僧。戦国時代には僧が武家に仕え、他との交渉を請け負うことが多々あった。
- ^ 安芸安国寺(不動院)。在広島県広島市東区牛田新町。
- ^ ただし、講和交渉が正式にまとまったのは天正13年1月の京芸和睦のときである。
- ^ 佐々成政宛の安国寺恵瓊書状に記述があり、辺春氏に恩賞を賜るべく奔走したものの果たせなかった。
- ^ 陣立書には合戦に参加した大名・諸将とその兵力が記載されており、津野説では恵瓊が大名であれば陣立書にその名前と動員兵力が記載されている筈であると指摘する。
- ^ 津野倫明は、毛利氏における恵瓊の政治的立場を長宗我部氏における非有や徳川氏における崇伝と近いものと捉えている[10]。
出典
- ^ 桑田, p. 56.
- ^ 桑田, p. 57.
- ^ 谷口克広『信長と消えた家臣たち』中央公論新社〈中公新書〉、2007年。ISBN 4-12-101907-5。[要ページ番号]
- ^ 熱田, p. 92.
- ^ 宮本義己「戦国母子像の虚実」『歴史読本』34巻13号、1989年。
- ^ 二木謙一『関ヶ原合戦―戦国のいちばん長い日―』中央公論社、1982年。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 68頁。
- ^ 『広島県史古代中世資料編IV』(広島県、1978年)所収「不動院文書」20号
- ^ 『鹿児島県史料旧記雑録後編二』(鹿児島県、1982年)15号「(天正一三年)三月一五日付島津義久充恵瓊書状」
- ^ a b 津野 2000.
- ^ 藤田達生「付論―安国寺恵瓊の評価をめぐって―」『日本近世国家成立史の研究』校倉書房、2001年。
- ^ 津野 2012.
- ^ 吉川元春家臣
- ^ 河合, pp. 46–47、書状は『吉川家文書』610号現存。
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