安国寺恵瓊は大名になったのか?とは? わかりやすく解説

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安国寺恵瓊は大名になったのか?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:04 UTC 版)

安国寺恵瓊」の記事における「安国寺恵瓊は大名になったのか?」の解説

安国寺恵瓊については2つの像が語られている。1つ毛利氏外交僧として仕え、その権力中枢の一員となってたとする見方である。もう1つ豊臣秀吉から知行与えられ豊臣政権において6万石異説あり)の大名になったとする説である。 恵瓊大名とする見方は、『廃絶録』に恵瓊に関する記述存在し明治以降歴史学でも当然のように恵瓊大名としてみなされてきた。その一方で1970年代から進んだ織豊期毛利氏権力構造研究の中で恵瓊天正13年1585年以後穂井田元清福原広俊ら他の毛利氏年寄重臣とともに毛利氏発給文書署名している事実指摘されてはいたが、この2つ恵瓊像の食い違いについては関心払われていなかった。 これに関して津野倫明恵瓊大名取り立てられたとする従来考え疑問呈した。まず、『陰徳記』に記され四国国分寺に与えられとされる伊予国2万3千石や『廃絶録』に記された6万石裏付けとなる史料存在しないこと、実在する天正一九年三月一三日安国寺秀吉朱印目録知行」の宛先も「安国寺」宛となっており、恵瓊本人所領大名領)か、寺院としての安国寺所領寺院領)か不明であることから恵瓊大名とみなす証拠にはならないとした。更に文禄の役において恵瓊朝鮮渡った事実確認できるにも関わらず同役陣立書には恵瓊の名前が見られないことなどを挙げて恵瓊大名であることを否定し反対に恵瓊が他の重臣とともに発給に関わった毛利氏家中文書文禄年間にも存在すること、恵瓊自身秀吉雇われた関係であると述べた書状存在することから、恵瓊秀吉との間には一種雇用関係存在したが、その身分毛利輝元主従関係結んだ毛利氏家臣年寄)であり、時代が下るにつれて毛利家中における彼の立場強化されていったとした。 この津野に対して藤田達生毛利家中には小早川隆景事例があり、恵瓊同様の事例であるとして恵瓊大名説を妥当とする立場からの批判行ったが、これに対して津野文禄の役陣立書小早川の名前はあるが恵瓊の名前は無く同列には扱えいとした上で、更に『義演准后日記慶長5年8月5日条に「毛利安国寺尾州出陣千人云々当郷罷通了」とあり、義演恵瓊独立した大名みなしていなかったこと、関ヶ原の戦いにおいて恵瓊兵力とされる兵が実際に毛利軍兵力であったとする反論行っている。

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