安国寺恵瓊は大名になったのか?
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「安国寺恵瓊」の記事における「安国寺恵瓊は大名になったのか?」の解説
安国寺恵瓊については2つの像が語られている。1つは毛利氏に外交僧として仕え、その権力中枢の一員となっていたとする見方である。もう1つは豊臣秀吉から知行を与えられ、豊臣政権において6万石(異説あり)の大名になったとする説である。 恵瓊を大名とする見方は、『廃絶録』に恵瓊に関する記述が存在し、明治以降の歴史学でも当然のように恵瓊は大名としてみなされてきた。その一方で、1970年代から進んだ織豊期の毛利氏の権力構造の研究の中で恵瓊は天正13年(1585年)以後も穂井田元清・福原広俊ら他の毛利氏年寄(重臣)とともに毛利氏発給の文書に署名している事実が指摘されてはいたが、この2つの恵瓊像の食い違いについては関心が払われていなかった。 これに関して、津野倫明は恵瓊が大名に取り立てられたとする従来の考えに疑問を呈した。まず、『陰徳記』に記された四国国分寺に与えられたとされる伊予国2万3千石や『廃絶録』に記された6万石は裏付けとなる史料が存在しないこと、実在する「天正一九年三月一三日付安国寺宛秀吉朱印目録知行」の宛先も「安国寺」宛となっており、恵瓊本人の所領(大名領)か、寺院としての安国寺の所領(寺院領)か不明であることから恵瓊を大名とみなす証拠にはならないとした。更に文禄の役において恵瓊が朝鮮に渡った事実を確認できるにも関わらず、同役の陣立書には恵瓊の名前が見られないことなどを挙げて恵瓊が大名であることを否定し、反対に恵瓊が他の重臣とともに発給に関わった毛利氏家中の文書が文禄年間にも存在すること、恵瓊自身が秀吉に雇われた関係であると述べた書状が存在することから、恵瓊は秀吉との間には一種の雇用関係が存在したが、その身分は毛利輝元と主従関係を結んだ毛利氏家臣(年寄)であり、時代が下るにつれて毛利家中における彼の立場が強化されていったとした。 この津野説に対して、藤田達生は毛利家中には小早川隆景の事例があり、恵瓊も同様の事例であるとして恵瓊大名説を妥当とする立場からの批判を行ったが、これに対して津野は文禄の役の陣立書に小早川の名前はあるが恵瓊の名前は無く同列には扱えないとした上で、更に『義演准后日記』慶長5年8月5日条に「毛利内安国寺、尾州出陣千人斗云々、当郷罷通了」とあり、義演が恵瓊を独立した大名とみなしていなかったこと、関ヶ原の戦いにおいて恵瓊の兵力とされる兵が実際には毛利軍の兵力であったとする反論を行っている。
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