児玉元良とは? わかりやすく解説

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児玉元良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/22 17:14 UTC 版)

 
児玉 元良
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正13年11月19日[1]1586年1月8日
改名 児玉元実[1]→児玉元良
別名 通称:小次郎[1]→三郎右衛門尉[1]
略称:児三右、児三
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 児玉氏
父母 父:児玉就忠[1]、母:久芳賢直の娘[1]
兄弟 元良、小方元信[1]春種[1]、内藤元輔[1]、女(粟屋元信室)[2]
正室:有福元貞の娘[1]
継室:羽根泰次の娘[1]
元兼[2]、飯田元親[2]景唯[2]二の丸殿(清泰院、毛利輝元側室)[2]、女(益田景祥室)[2]元次[2]
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児玉 元良(こだま もとよし、旧字体兒玉 元良)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将安芸国戦国大名毛利氏の家臣で、毛利氏の五奉行の一人。

生涯

毛利氏の家臣である児玉就忠の子として生まれる。

天文22年(1553年)に毛利隆元烏帽子親として元服

永禄5年(1562年)、父の就忠が病死すると家督を相続する。同時に毛利氏の五奉行の地位も引き継ぎ、天正12年(1584年)まで務めた。

永禄8年(1565年)、毛利輝元の指揮下で月山富田城の戦いに従軍。

元亀元年(1570年)、山中幸盛率いる尼子再興軍との布部山の戦いにも従軍した[3]

元亀3年(1572年12月1日、毛利輝元から安芸国安北郡諸木の内の40貫の地を恩賞として与えられる[4]

毛利氏と織田氏との対立が激しくなると播磨国方面にも進出し、天正6年(1578年)の上月城の戦いにも嫡男の児玉元兼と共に従軍した。同年6月21日の合戦で元兼が負傷しつつも戦功を挙げたことで、6月26日に元良からも輝元からの称賛の言葉を言い聞かすように輝元から命じられている[5][6][7]

天正7年(1579年3月2日、元就の娘婿である備後国人の上原元将が元良に売り渡していた周防国玖珂郡南方の内の80石の地を、輝元が元良の給地として承認した[8]

天正8年(1580年4月14日、毛利輝元の備中出陣に伴う宇喜多方備前国人である伊賀久隆の虎倉城攻撃の途上、備前国児島郡下加茂において伊賀久隆の強襲を受け、毛利軍は先鋒部隊の将であった粟屋元信を始めとして児玉元房、井上元勝、奈古屋元賀、三戸元好、小寺就武宇多田藤右衛門、山県三郎兵衛、足立十郎右衛門、斎藤左衛門尉ら40人余りが討ち取られる大敗を喫した(加茂崩れ)[9]。この時の撤退戦において元良の嫡男・元兼が粟屋元信の首級を奪い返すために奮戦し負傷したため、養生をする元兼のために輝元は5月12日に元良を呼び寄せている[10]

天正12年(1584年)、毛利氏の使者として、伊予国河野氏のもとへ派遣されている。

天正13年(1585年11月19日、元良は死去した。輝元は元良の死を痛惜し、翌11月20日粟屋元種に書状を送って、元良の遺族を慰藉するよう依頼している。また、同じく11月20日に元良の死を知った小早川隆景も粟屋元種に書状を送っており、上洛中で元良の見舞いに行けなかったことを悔やんでいる[11]

元良の死去に伴って嫡男の元兼が家督を相続し、天正14年(1586年1月27日に元良が行っていた取次を元兼が引き継ぐことを小早川隆景と吉川元春・元長父子から認められている[12]

逸話

  • 周防国長門国において口伝され流布されてきた物語を集めた『古老物語』に収録された伝承よると、後に毛利輝元の側室になる二の丸殿(清泰院)は、幼少の頃に自宅門前で遊んでいたところ、美少女ゆえに通りかかった輝元の目に留まり、輝元はその後しばしば元良の屋敷を訪問するようになる。輝元のそうした行動を快く思わない元良は、天正12年に二の丸殿を杉元宣のもとに嫁がせたという。しかしこれが結果的に、天正14年(1586年)の輝元による二の丸殿の強奪と、立腹した元宣による天正17年(1589年)の二の丸殿奪還計画と、事の重大さに気付いた小早川隆景による野上庄沖にある大島の船隠での元宣殺害に繋がることとなる。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 146.
  2. ^ a b c d e f g 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 147.
  3. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第30号、元亀元年(1570年)比定12月26日付け、兒三右(兒玉三郎右衛門尉元良)宛て、(毛利)輝元書状。
  4. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第48号、元亀3年(1572年)12月1日付け、兒玉三郎右衛門尉(元良)殿宛て、(毛利)輝元書状。
  5. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第6号、天正6年(1578年)比定6月26日付け、兒玉三郎右衛門尉(元良)殿宛て、(毛利)輝元書状。
  6. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第7号、天正6年(1578年)比定6月26日付け、兒玉小次郎(元兼)殿宛て、(毛利)輝元書状。
  7. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第5号、天正6年(1578年)比定6月28日付け、兒三右(兒玉三郎右衛門尉元良)宛て、(毛利)輝元書状。
  8. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第49号、天正7年(1579年)3月2日付け、兒玉三郎右衛門尉(元良)殿宛て、(毛利)輝元書状。
  9. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 167.
  10. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第21号、天正8年(1580年)比定5月13日付け、兒玉小次郎(元兼)宛て、(毛利)輝元書状。
  11. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第25号、天文13年(1585年)比定11月20日付け、粟藏(粟屋内藏助元種)宛て、(小早川)左衛門佐隆景書状。
  12. ^ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第26号、天正14年(1586年)比定1月27日付け、兒玉三郎右衛門尉(元兼)殿宛て、左衛隆景(小早川左衛門佐隆景)・治部元長(吉川治部少輔元長)・駿河元春(吉川駿河守元春)連署状。

参考文献




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