秀吉近臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 19:09 UTC 版)
天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となった。恵瓊本人の禄ではないが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられている。 また、恵瓊は秀吉の側近も兼ねることとなり、天正13年12月7日には九州征伐に先立ち黒田孝高・宮木宗賦とともに大友氏・毛利氏の和睦締結、九州諸将への指示伝達のため九州に派遣されるなどしたほか、秀吉の命令で行なわれた検地、厳島神社の千畳閣など作事の奉行を務めている。武将としても小田原征伐に兵を率いて参陣し、天正18年(1590年)3月には脇坂安治、長宗我部元親と共に清水康英が守る下田城を攻め、1ヶ月の籠城戦の後これを陥落させている。このとき内陸の横川[要曖昧さ回避]に対して制札を出し、水軍将兵の同地での乱暴狼藉を禁じている。
※この「秀吉近臣時代」の解説は、「安国寺恵瓊」の解説の一部です。
「秀吉近臣時代」を含む「安国寺恵瓊」の記事については、「安国寺恵瓊」の概要を参照ください。
秀吉近臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:48 UTC 版)
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった長浜城主羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され200石で仕えた。長浜市永保町には、「増田長盛屋敷跡」の碑が建っており、ここが長浜時代の長盛の住居跡である。 秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。 天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いに従軍し、戦功で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)5月、従五位下・右衛門尉に叙任されている。長宗我部元親が秀吉に降伏して豊臣政権下の一大名となると、論拠不明ながら長盛が長宗我部氏の取次となったとする指摘がある。 天正15年(1587年)、関戸の奉行となる。 天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった。この年、京都の三条橋を架けた。近江水口城を与えられ、翌年の天正19年閏正月、長束正家と共に近江を検地した。 文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。 文禄4年(1595年)、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で積荷没収のために土佐に派遣される。かねてからの長盛と長宗我部氏との特殊な関係が想定でき、派遣を機にそのような関係が深まったと想定される。
※この「秀吉近臣時代」の解説は、「増田長盛」の解説の一部です。
「秀吉近臣時代」を含む「増田長盛」の記事については、「増田長盛」の概要を参照ください。
秀吉近臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 17:38 UTC 版)
初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると財政上不正があったと豊臣家より糾弾されたが、正家は帳簿を証拠として提出し、これに抵抗した。 この後豊臣氏直参の家臣になった。高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。 天正14年(1586年)の九州平定、天正18年(1590年)小田原征伐では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍し、20万石の兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において米3万石を買占め小田原城を兵糧攻めにした。支城の戦いでは家臣・家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが忍城攻めにおいて武功を立てている。戦後には家臣であった弟の正隆が秀吉の直参に取り立てられている。文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。またこの際には京都の秀吉との中継役も務めていたようで、虎狩で得た虎を秀吉へと贈った朝鮮在陣中の亀井茲矩に対して、防禦指示を兼ねた代筆礼状を祐筆役としての署名と共に返信している記録が残る。 この間、天正14年(1586年)には本多忠勝の妹・栄子を正室に迎え、天正17年(1589年)には長男・半右衛門助信が誕生している。半右衛門には山中三十郎が家老として付けられた(『北野社家日記』)。天正18年(1590年)正月13日には人質として上洛した徳川秀忠の出迎えの任に当たるなど、徳川家との関係も深かった。 農村支配にも関与しており、文禄3年(1594年)2月には豊臣秀次とも相談の上、中川秀成の豊後入封に際し隣接する蔵入地代官太田一吉に協力を求めて戦乱によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示している。また、同時期に伏見城の造営にも参画している。
※この「秀吉近臣時代」の解説は、「長束正家」の解説の一部です。
「秀吉近臣時代」を含む「長束正家」の記事については、「長束正家」の概要を参照ください。
秀吉近臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:34 UTC 版)
豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いた。天正13年(1585年)には摂津守に任ぜられ、また豊臣姓を名乗ることを許される。同年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したといわれている。また一方で、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。 天正13年(1585年)、小豆島で1万石を与えられた。のちに行長はルイス・フロイスから「海の司令官」と称されている。 これに前後して、天正12年(1584年)には高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる。小豆島ではグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している。 天正14年(1586年)10月頃より摂津守を名乗り、没するまで摂津守を名乗ることになるが、天正15年(1587年)3月から5月の時期のみ日向守を名乗っている。
※この「秀吉近臣時代」の解説は、「小西行長」の解説の一部です。
「秀吉近臣時代」を含む「小西行長」の記事については、「小西行長」の概要を参照ください。
- 秀吉近臣時代のページへのリンク