徳川家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 00:45 UTC 版)
天文17年(1548年)、永見貞英と水野忠政の娘との間に於万の方が生まれた。於万の方の叔母は於大の方で、松平広忠の正室であり、徳川家康の母でもある。天正元年(1573年)、家康は正室・築山御前の侍女であった於万の方を側室とし、天正2年(1574年)、のちの結城秀康を産むが、双子であった。当時、双子は「犬畜生と同じ双子腹」として忌み嫌われていたため、もう一人は於万の方の兄で30代当主の永見貞親の養子となり、永見貞愛と名乗る。築山御前を配慮して本多重次に従い、浜名湖畔の代官・中村屋敷にて出産した。秀康は3歳の時、兄・信康の取り計らいで家康と対面するまで1度も実父と会ったことがなく、その後も双子の影響で不幸な人生を送ったと伝わる。
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