江戸期の繁栄
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「勝願寺 (鴻巣市本町)」の記事における「江戸期の繁栄」の解説
天正年間(1573年から1593年)、高僧の惣誉清厳が当寺を登戸から鴻巣宿へと移設し、浄土宗の寺院として再興に務めた。天正7年(1579年)、清厳の隠居に伴い武州松山城主・上田氏一族の出である円誉不残が当寺の住職となった。不残は学徳が高く、文禄元年(1592年)2月に徳川家康が当寺を訪れた際に御前で法問論議を行い、家康から銀や玄米や和紙を贈られた。学徳に感銘を受けた家康はすぐに不残に帰依し、随行した伊奈忠政と伊奈忠家、牧野康成らに当寺の檀家になるように命じた。さらに、家康は三つ葉葵の使用を許可、慶長9年(1604年)11月には寺領30石を寄進し、諸役免除となった。家康はたびたび鴻巣および当寺を訪れていたが、江戸幕府二代将軍の徳川秀忠や三代将軍の徳川家光も家康と同様に当寺を詣でるなど、徳川家との関係は維持された。 当寺は清厳によって中興された当時から学問所、僧侶の養成機関として機能しており、関東十八檀林が成立する以前の慶長2年(1597年)の時点で江戸の増上寺、川越の蓮馨寺、鎌倉の光明寺とともに檀林のひとつとして存在したものと考えられている。当時、浄土宗僧侶の資格取得は関東の寺院に限定され、他の地域での取得は禁じられており、関東檀林の寺院には全国各地から修行僧が訪れた。慶長11年(1606年)8月、中興二世の円誉不残が後陽成天皇から僧としては最高位の紫衣を賜ると、その後も徳川家の庇護の下で高僧や名僧を数多く輩出し、いずれも紫衣を賜った。一方、勝願寺の絵図によれば江戸中期の宝永5年(1708年)には16棟ほどの修行僧のための寮(所化寮)が立ち並んでいたが、文化・文政年間(1804年から1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』では3棟と記されていることから、他の浄土宗寺院と同様に学問所・養成機関としての機能は次第に衰退していったものと考えられる。 なお、本寺の末寺としては寛永9年(1632年)の『浄土宗諸寺之帳』や元禄8年(1695年)の『浄土宗寺院由緒書』などによれば下野国の清巌寺、武蔵国児玉郡の円心寺、同埼玉郡の法性寺、同足立郡の十連寺をはじめとした40か寺があり、勝願寺は浄土宗の総本山である知恩院からの伝達事項を各寺に伝える触頭の役割を担っていた。
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