江戸期の繁栄とは? わかりやすく解説

江戸期の繁栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 15:54 UTC 版)

勝願寺 (鴻巣市本町)」の記事における「江戸期の繁栄」の解説

天正年間1573年から1593年)、高僧の惣誉清厳が当寺登戸から鴻巣宿へと移設し、浄土宗の寺院として再興務めた天正7年1579年)、清厳の隠居に伴い武州松山城主・上田氏一族出である円誉不残が当寺住職となった。不残は学徳高く文禄元年1592年2月徳川家康当寺訪れた際に御前法問論議行い家康から銀や玄米和紙贈られた。学徳感銘受けた家康はすぐに不残に帰依し随行した伊奈忠政伊奈忠家牧野康成らに当寺檀家になるように命じた。さらに、家康三つ葉葵使用許可慶長9年1604年11月には寺領30石を寄進し、諸役免除となった家康はたびたび鴻巣および当寺訪れていたが、江戸幕府二代将軍徳川秀忠三代将軍徳川家光家康同様に当寺詣でるなど、徳川家との関係維持された。 当寺は清厳によって中興された当時から学問所僧侶養成機関として機能しており、関東十八檀林成立する以前慶長2年1597年)の時点江戸増上寺川越蓮馨寺鎌倉光明寺とともに檀林ひとつとして存在したものと考えられている。当時浄土宗僧侶資格取得関東寺院限定され他の地域での取得禁じられており、関東檀寺院には全国各地から修行僧訪れた慶長11年1606年8月中興二世の円誉不残が後陽成天皇から僧としては最高位紫衣賜ると、その後徳川家庇護の下で高僧名僧数多く輩出しいずれも紫衣賜った一方勝願寺絵図によれば江戸中期宝永5年1708年)には16棟ほどの修行僧のための寮(所化寮)が立ち並んでいたが、文化・文政年間1804年から1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』では3棟記されていることから、他の浄土宗寺院同様に学問所養成機関としての機能次第衰退していったものと考えられる。 なお、本寺末寺としては寛永9年1632年)の『浄土宗諸寺之帳』や元禄8年1695年)の『浄土宗寺院由緒書』などによれば下野国清巌寺武蔵国児玉郡円心寺、同埼玉郡法性寺、同足立郡十連寺をはじめとした40か寺があり、勝願寺浄土宗総本山である知恩院からの伝達事項を各寺に伝え触頭役割担っていた。

※この「江戸期の繁栄」の解説は、「勝願寺 (鴻巣市本町)」の解説の一部です。
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