江戸期以降
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口永良部という地名は江戸期より見え、当時は「口之永良部島村」と称しており、大隅国馭謨郡(ごむぐん)屋久島のうちであった。村高は「天保郷帳」では142石余、「鹿児島県史」では184石余であったが、全て島役の扶持米として支払うこととなっていたという。 1889年に町村制が施行されたのに伴い、屋久島の北部にある7村と口永良部島村が合併し島域の全体が、上屋久村の大字「口永良部島」(1958年の町制施行の際も同様)となり、2007年に上屋久町が屋久町と合併し屋久島町となり、屋久島町の大字「口永良部島」となった。 1951年(昭和26年)9月7日 - 口永良部漁港が、第4種漁港に指定される。 1951年(昭和26年)10月 - ルース台風による被害。島内401戸中200戸が倒壊、残りの家々も高波などで大きな被害を出した。島内の船も全て流出したため、10月20日に救援船が到着するまで孤立を強いられた。当時の人口は2080人。 1955年(昭和30年)7月4日 - 電話通話事務の取扱を、口永良部郵便局が開始する。 1976年(昭和51年)9月12日 - 台風17号による暴風雨のため、同日までに島内の家屋126戸すべてが被害を受ける。 1978年(昭和53年)9月1日 - アリモドキゾウムシが島内で根絶され、同島産のアリモドキゾウムシの寄主植物の移動の禁止が解除される。 2007年(平成19年)3月30日 - 口永良部島の全部およびその地先海面が、霧島屋久国立公園の区域となる。 2012年(平成24年)3月16日 - 口永良部島の全部およびその地先海面が、霧島屋久国立公園の区域から削除され、屋久島国立公園の区域となる。 詳しくは、『口永良部島・歴史年表』を参照。
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江戸期以降
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日本の銃器が伝来から幕末までの永きに渡り火縄銃の構造から進歩しなかった理由には以下があげられる。 まず江戸時代に入り、徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされたことや、鎖国の影響による技術進歩の停滞という通説が存在する。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかしながら、外国で発達した燧発式の技術が当時の鉄砲鍛冶に受け入れられている。試作品も現存し、また応用技術としてその機構を流用したライターも製造されている。また、各大名諸藩で極秘裏に様々な銃器が研究されており、そのバリエーションは多岐にわたる[要出典]。 燧発式が日本では流行しなかったのは、日本では良質の燧石が産出せず大量生産ができなかったことや、燧発式は機構の不具合による不発率が火縄式よりも高かったことや、平穏な時代が長く続いたため、天候に影響されにくく、密集射撃が可能であるなどの燧発式の長所が理解、あるいは必要とされなかったことが理由として挙げられる。ほか、すべての武術と同じく鉄炮術も一種の競技的な要素を含んで流派形式で継承されたため、その結果必然的に器具類の改変は避けられた、という要素も大きい。燧発式の欠点として、火縄式に比べ強力なばねが装着されており、撃鉄作動時の衝撃が大きく、引金を引いてから一瞬遅れて装薬に着火する機構のため銃身がぶれ、命中率が悪く火縄銃よりも命中率が劣ることが挙げられる。当然ながら実戦よりも競技となった鉄炮術においては、この欠点は大きな問題となる。そのため江戸時代を通してほとんどの銃器が火縄式のままであった[要出典]。 一方で火縄銃は、鳥獣被害対策のための実用の農具として、農村に普及し、売買され、所有されていた。もちろん、一揆への警戒などの理由から、農民の農具としての火縄銃のさらなる性能向上は、全く考えられなかった。 幕末期には新式銃が渡来したが、諸藩ではこの時期、海外事情も考慮してパーカッションロック式の銃器などを模造、試作した。皿を3つ付けたものや、ペッパーボックスピストルのように複数の銃身を持ち、回転しながら次々に着火させるものなどが作られた。ほかにも三連発の火縄銃や水平二連式短銃など、様々なものが試製されていた。これらは実用の可能性があるか疑わしいものが多く、結局は新式銃が輸入され、広く普及した。しかしながら、火縄銃の打ち金を雷管式のハンマーに変換し滑空式雷管銃に改造した新発銃の製造も、改造の容易さから盛んに行われ、ゲベール銃と同じ二戦級の銃器として扱われた[要出典]。 明治維新以降は洋式銃や村田銃等の新式銃におされ、国友を初めとする伝統的な火縄銃職人集団と共に、日本から火縄銃は急速に廃れていった。しかし、マタギなど民間の狩猟家の間では、依然中古品の火縄銃に大きな需要があり、火縄銃職人の一部も大正から昭和初期ごろまで細々と火縄銃の製造を続けていたとされる。これらは昭和初期に軍払い下げ(もしくは民間メーカーのライセンス生産品)の村田銃が普及すると姿を消した[要出典]。 なお、太平洋戦争最末期に、旧日本軍が本土防衛師団へ配備するため、簡素な町工場でも大量生産が可能な「国民簡易小銃」として火縄銃の量産配備を検討し、実際に開発を行っていたという記録が試作品の僅かな写真と共に残されている[要出典]。
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江戸期以降
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慶長7年(1602年)、勅願寺となる。 慶長17年(1612年)1月7日、徳川家康は、三河吉良で狩りをするとして駿府城を発した。14日から数日、吉良で鷹狩に明け暮れたあと、20日に岡崎城に入った。26日、家康は大樹寺に参拝。法要のあと銀50枚を寄せ、さらに松應寺に詣でてて法要を営み、同様に銀50枚を布施した。27日には名古屋城に赴き石垣や堀の工事の指揮をして、29日に岡崎へ帰り、2月2日に岡崎を発ち、2月6日に駿府城に戻った。 元和2年(1616年)4月17日、家康が死去。死に際しては、17代住職の了譽(りょうよ)が同席した。家康の死後は、遺言に従い、位牌が収められた。以降、歴代徳川将軍の等身大位牌が大樹寺に収められた。現存する位牌は尾張藩主徳川義直が寛永5年(1628年)に調進したものと寺では伝えている。 元和3年(1617年)、畔柳清左衛門寿学が奉行となって、家康の祖先八代を祀るための墓の修復再建と寮舎の修造が行われた。四代親忠の墓が魂場野から当寺に移転され、五代長親、六代信忠、七代清康、八代広忠の墓が再興された(松平八代墓)。 寛永13年(1636年)、将軍家光は本堂以下の堂舎の新築を命じた。普請は寛永15年(1638年)2月より始まり、寛永18年(1641年)11月に58棟すべてが完成した。この工事は「寛永の大造営」と一般に呼ばれる。 正保元年(1644年)10月18日、家光は、酒井忠勝、阿部忠秋、阿部重次を召して、大樹寺に東照宮を造営するよう命じた。11月初め、松平正綱と大工頭の木原義久が土地点検のため岡崎に派遣された。結局、東照宮は大樹寺内には造営されず、滝山寺に造営された。 安政2年(1855年)1月26日夜、勝手の七輪の下から出火。本堂、大方丈、小方丈、御霊殿、開山堂、庫裏、衆寮が焼失した。焼け残ったのは家康・秀忠・広忠の廟所と宝蔵、多宝塔、鐘楼、山門、塔頭などであった。翌27日、寺は使者を江戸へ出立させた。使者は2月3日夜に増上寺に到着。翌4日に増上寺と寺社奉行に報告書を提出した。このときの書面には「御供所の常香盤の火がこぼれたこと」が原因で出火した旨の記載がなされていた。江戸を発った大樹寺焼跡の見分役3名は2月晦日に岡崎宿に到着した。寺側は七輪の火の不始末が露見しないかと、早くから気を配っていたが、火元の件は問題にされなかったと伝えられている。 幕閣において大樹寺の再建が正式に決定されたのは安政3年(1856年)2月10日とされる。同年9月、工事が開始。安政4年(1857年)5月、工事完了の儀式である釿納が行われた。本尊は、平安末期作の木造阿弥陀如来坐像が京都の泉涌寺からもたらされた。幕府の支出により再建工事は無事完成したが、総建坪は約2割削減され、大方丈の障壁画は描かれなかった。そのため大樹寺は寺費で冷泉為恭に依頼し、障壁画を同年9月に完成させた。 ペリー来航に始まる幕末の動乱は安政5年(1857年)9月の安政の大獄を第一の頂点として激化の一途をたどるが、火災がこの年以降に起こっていたら、おそらくは工事はできなかっただろうと言われている。 慶応元年(1865年)5月16日、第二次長州征討のため、第14代将軍の徳川家茂は江戸を出発。同月、岡崎城に入り、その翌日、伊賀八幡宮を経由して大樹寺に詣でた。現職の将軍の大樹寺参拝はこれが最初にして最後となった。八ツ半過ぎに大樹寺を発ち、松應寺に立ち寄ったあと、七ツ半過ぎに岡崎城に帰った。そして翌日、西に向かった。
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