江戸期以降とは? わかりやすく解説

江戸期以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:42 UTC 版)

口永良部島」の記事における「江戸期以降」の解説

口永良部という地名江戸期より見え当時は「口之永良部島村」と称しており、大隅国馭謨郡(ごむぐん)屋久島のうちであった村高は「天保郷帳」では142石余、「鹿児島県史」では184石余であったが、全て島役扶持米として支払うこととなっていたという。 1889年町村制施行されたのに伴い屋久島北部にある7口永良部島合併し島域の全体が、上屋久村大字口永良部島」(1958年町制施行の際も同様)となり、2007年上屋久町屋久町合併し屋久島町となり、屋久島町大字口永良部島となった1951年昭和26年9月7日 - 口永良部漁港が、第4種漁港指定される1951年昭和26年10月 - ルース台風による被害島内401戸中200戸が倒壊残り家々高波などで大きな被害出した島内の船も全て流出したため、10月20日救援船が到着するまで孤立強いられた当時人口は2080人。 1955年昭和30年7月4日 - 電話通話事務取扱を、口永良部郵便局開始する1976年昭和51年9月12日 - 台風17号による暴風雨のため、同日までに島内家屋126戸すべてが被害を受ける1978年昭和53年9月1日 - アリモドキゾウムシ島内根絶され、同島産のアリモドキゾウムシ寄主植物の移動禁止解除される2007年平成19年3月30日 - 口永良部島全部およびその地先海面が、霧島屋久国立公園区域となる。 2012年平成24年3月16日 - 口永良部島全部およびその地先海面が、霧島屋久国立公園区域から削除され屋久島国立公園区域となる。 詳しくは、『口永良部島歴史年表』を参照

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江戸期以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 02:02 UTC 版)

火縄銃」の記事における「江戸期以降」の解説

日本銃器伝来から幕末まで永き渡り火縄銃構造から進歩しなかった理由には以下があげられる。 まず江戸時代入り徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓狩猟及び銃の原則所持禁止銃器移動制限なされたことや、鎖国影響による技術進歩停滞という通説存在する。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかしながら外国発達した燧発式の技術当時鉄砲鍛冶受け入れられている。試作品現存し、また応用技術としてその機構流用したライター製造されている。また、大名諸藩極秘裏に様々な銃器研究されており、そのバリエーション多岐にわたる[要出典]。 燧発式が日本では流行しなかったのは、日本では良質燧石産出せず大量生産ができなかったことや、燧発式は機構不具合による不発率が火縄式よりも高かったことや、平穏な時代長く続いたため、天候影響されにくく、密集射撃が可能であるなどの燧発式の長所理解、あるいは必要とされなかったことが理由として挙げられる。ほか、すべての武術同じく鉄炮術も一種競技的要素含んで流派形式継承されたため、その結果必然的に器具類の改変避けられた、という要素大きい。燧発式の欠点として、火縄式に比べ強力なばねが装着されており、撃鉄作動時の衝撃大きく引金引いてから一瞬遅れて装薬着火する機構のため銃身がぶれ、命中率悪く火縄銃よりも命中率が劣ることが挙げられる当然ながら実戦よりも競技となった鉄炮においては、この欠点大きな問題となる。そのため江戸時代通してほとんどの銃器火縄式のままであった[要出典]。 一方で火縄銃は、鳥獣被害対策のための実用農具として、農村普及し売買され所有されていた。もちろん、一揆への警戒などの理由から、農民農具としての火縄銃さらなる性能向上は、全く考えられなかった。 幕末期には新式銃が渡来したが、諸藩ではこの時期海外事情考慮してパーカッションロック式銃器などを模造試作した。皿を3つ付けたものや、ペッパーボックスピストルのように複数銃身持ち回転しながら次々着火させるものなどが作られた。ほかにも三連発の火縄銃水平二連短銃など、様々なものが試製されていた。これらは実用可能性があるか疑わしいものが多く結局は新式銃が輸入され広く普及したしかしながら火縄銃打ち金雷管式ハンマー変換し滑空雷管銃に改造した新発銃の製造も、改造容易さから盛んに行われゲベール銃と同じ二戦級の銃器として扱われた[要出典]。 明治維新以降洋式銃や村田銃等の新式銃におされ、国友初めとする伝統的な火縄銃職人集団と共に日本から火縄銃急速に廃れていった。しかし、マタギなど民間狩猟家の間では、依然中古品火縄銃大きな需要があり、火縄銃職人一部大正から昭和初期ごろまで細々火縄銃製造続けていたとされる。これらは昭和初期に軍払い下げもしくは民間メーカーライセンス生産品)の村田銃普及する姿を消した[要出典]。 なお、太平洋戦争最末期に、旧日本軍本土防衛師団配備するため、簡素な町工場でも大量生産可能な国民簡易小銃」として火縄銃量産配備検討し実際に開発行っていたという記録試作品僅かな写真と共に残されている[要出典]。

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江戸期以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:55 UTC 版)

大樹寺」の記事における「江戸期以降」の解説

慶長7年1602年)、勅願寺となる。 慶長17年1612年1月7日徳川家康は、三河吉良狩りをするとして駿府城発した14日から数日吉良鷹狩明け暮れたあと、20日岡崎城入った26日家康大樹寺参拝法要のあと銀50寄せ、さらに松應寺詣でてて法要営み同様に50布施した。27日には名古屋城に赴き石垣や堀の工事指揮をして、29日岡崎帰り2月2日岡崎発ち2月6日駿府城戻った元和2年1616年4月17日家康死去死に際しては、17住職の了譽(りょうよ)が同席した家康死後は、遺言従い位牌収められた。以降歴代徳川将軍等身大位牌大樹寺収められた。現存する位牌尾張藩主徳川義直寛永5年1628年)に調進したものと寺では伝えている。 元和3年1617年)、畔清左衛門寿学が奉行となって家康祖先八代祀るための墓の修復再建寮舎修造が行われた。四代親忠の墓が魂場野から当寺移転され五代長親、六代信忠七代清康八代広忠の墓が再興された(松平八代墓)。 寛永13年1636年)、将軍家光は本堂以下の堂舎新築命じた普請寛永15年1638年2月より始まり寛永18年1641年11月58棟すべてが完成した。この工事は「寛永大造営」と一般に呼ばれる正保元年1644年10月18日家光は、酒井忠勝阿部忠秋阿部重次召して大樹寺東照宮造営するよう命じた11月初め松平正綱大工頭木原義久土地点検のため岡崎派遣された。結局東照宮大樹寺内には造営されず、滝山寺造営された。 安政2年1855年1月26日夜、勝手の七輪の下から出火本堂大方丈小方丈御霊殿開山堂庫裏衆寮焼失した焼け残ったのは家康秀忠広忠廟所宝蔵多宝塔鐘楼山門塔頭などであった。翌27日、寺は使者江戸へ出立させた。使者2月3日夜に増上寺到着。翌4日増上寺寺社奉行報告書提出した。このときの書面には「御供所常香盤の火がこぼれたこと」が原因出火した旨の記載なされていた。江戸発った大樹寺焼跡見分役3名は2月晦日岡崎宿到着した。寺側は七輪の火の不始末露見しないかと、早くから気を配っていたが、火元の件は問題にされなかったと伝えられている。 幕閣において大樹寺再建正式に決定されたのは安政3年1856年2月10日とされる同年9月工事開始安政4年1857年5月工事完了儀式である釿納が行われた。本尊は、平安末期作の木造阿弥陀如来坐像京都泉涌寺からもたらされた。幕府支出により再建工事は無事完成したが、総建坪は約2割削減され大方丈障壁画描かれなかった。そのため大樹寺は寺費で冷泉為恭依頼し障壁画同年9月完成させた。 ペリー来航に始まる幕末の動乱安政5年1857年9月安政の大獄第一頂点として激化一途をたどるが、火災この年以降起こっていたら、おそらくは工事はできなかっただろうと言われている。 慶応元年1865年5月16日第二次長州征討のため、第14代将軍徳川家茂江戸出発同月岡崎城入り、その翌日伊賀八幡宮経由して大樹寺詣でた。現職将軍大樹寺参拝はこれが最初にして最後となった。八ツ半過ぎに大樹寺発ち松應寺立ち寄ったあと、七ツ半過ぎに岡崎城帰った。そして翌日、西に向かった

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