江戸期以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 17:21 UTC 版)
伊勢の安国寺である、虎關師錬開基の三重県三重郡大字西日野の神賛寺が1572年(元亀3年)、滝川一益との戦により焼失した。織田信雄が父信長の菩提を弔うため、伊勢国桑名郡大島墟城地に安国寺を引き取り瑞恕忠嶽を開山として景陽山總見寺を建立した。しかし、1585年(天正13年)、地震により大破したため尾張清洲の地に再建した。1610年(慶長15年)、清洲越しにより清洲城の城下町ごと名古屋へ移って遺跡となった。
※この「江戸期以前」の解説は、「總見院」の解説の一部です。
「江戸期以前」を含む「總見院」の記事については、「總見院」の概要を参照ください。
江戸期以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:25 UTC 版)
黒谷和紙の始まりは、口伝によれば、中世、この地に隠れ住んだ平家の落ち武者らが子孫へ残す生業として始めたとされるが、黒谷では寛政年間(1789-1801年)と明治期半ばに起きた大火で古文書や古記録の類がほぼ焼失したため現存する古記録が少なく、手漉き和紙の発祥についても定かではない。生活の糧として始まった紙漉きは、当初は「小判」と呼ぶ小さな紙を漉き、それを農家の米や豆と交換してもらうことで糊口をしのぐ程度であったという。 集落の始まりは、伝承によれば川上姓を名乗る弓の達人と平家の落ち武者ら16人で、鎌倉時代のものと推定される五輪塔があること、応永年間(1394-1428年)には門徳寺が開山していること、現存する最古の記録とみられる1595年(文禄4年)の記録で禄高4石余の名主とみられる農民の名があることなどから、中世には相当の集落が形成されていたものとみられる。黒谷には、若干16歳の平敦盛を斬首せざるをえなかった源氏方の熊谷直実が出家を決意し、黒谷の法然上人を訪ねたという伝承が残り、集落にある金戒光明寺には、平敦盛と熊谷直実の供養塔が向かい合わせに建立されている。 1582年(天正10年)に山家藩谷氏の領国となり、1628年(寛永5年)にこれを3家に分けて旗本谷家がつくられた際、黒谷村は旗本梅迫領に属し、村の行政は代官によって執られることとなった。 江戸時代、黒谷村の主産業は農業であったが、耕地は少なかったことから、近隣の上杉村や高槻村への出作農で補っていた。しかし、出作地での収穫も十分ではなく、山仕事や紙漉きなどの副業で領主への上納分を賄っていたことが、1854年(嘉永7年)の文書に記録されている。 本業の農耕での収益が期待できない一方、副業の紙漉きは、元禄年間(1688-1704年)頃には、梅迫領の行政を担っていた旗本の代官が資金の貸し付けを行って製紙業の振興を図るほどで、徐々に発展して傘紙などの厚地の紙を主に生産するようになった。当時、約30戸の農家が紙漉きに携わり、周辺地域の農村と物々交換を行った。1790年(寛政2年)頃からは京都に進出し、市場拡大を図った。 天保年間(1830-1844年)頃から幕末にかけてのおよそ20年間、梅迫領の執政を担った代官は十倉治右衛門(とくらじえもん)父子で、とくに父親の十倉治右衛門は名代官の呼び声高い人物であった。貯水池を作って日照りに備え、開墾や楮の栽培を奨励するなど、領内の発展と殖産興業に力を尽くし、黒谷和紙の振興に尽くした功績は顕著で、大正期の郷土資料『何鹿郡誌』でも尊崇をもって紹介されている。 1853年(嘉永7年)、十倉氏率いる梅迫代官所は「紙会所」を設置して紙生産を奨励するとともに生産者の統制を図った。安政年間(1854-1860)には生産量の増加に伴い、京都の越後屋に余った紙を売ることも検討されたが、品質に難があるとして、当初、取引は成立しなかった。1855年(安政2年)、文助なる者が京風の紙の漉き方を習い受け、それまで副業としていた紙漉きを専業として行うようになった。1859年(安政6年)には、越後屋の紹介で善七・友三郎という2名の技術者を里に招いて教えを請い、やがて上質な京呉服にも適した紙を生産できるようになったことから販路開拓が成ったという。京呉服に用いる値札や包み紙などの関連用品のほか、公家が用いる鼻紙や和歌を記すのに用いた畳紙(たとうがみ)、渋紙、畳紙、傘紙、障子紙などを製造し、販売した。この頃から紙漉き業が黒谷の主産業として本格的に行われるようになったとみられ、同時に株仲間を形成して品質管理と技術保存に努めた。 しかし、黒谷の紙が商品価値を高めるにつれ、領主は特産品として生産を保護すると同時に、製品の販売にも介入するようになった。農民は「紙運上」を上納していたが、藩が紙の専売を図ったことにより、1859年(安政6年)にはこれに反発した農民による「梅迫騒動」も発生した。1859年(安政6年)の領主側の記録によれば、紙方産物入用に手当として銀20貫を与えて紙の生産を奨励したとあるが、この資金援助を理由に、領主が紙の専売を図ろうとしたことが、従来通りの売買を希望する領民の反発を招いたのであった。騒動の結果、代官・十倉氏(子)は追放され、代官とともに黒谷和紙の販売に関わっていた大庄屋は越権行為があったとして退役謹慎を申し渡された。領主の谷帯刀は領内特産の紙漉きの育成を図るべく、運営資金を貸し与え援助するので永く紙漉きを続けるようにと庄屋に申し渡したとする、1862年(文久2年)の文書が残る。
※この「江戸期以前」の解説は、「黒谷和紙」の解説の一部です。
「江戸期以前」を含む「黒谷和紙」の記事については、「黒谷和紙」の概要を参照ください。
江戸期以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 07:35 UTC 版)
塚原卜伝:戦国時代の剣豪、兵法家 長宗我部元親:土佐の戦国大名 長宗我部盛親:元親の4男。豊臣政権の大名 小川祐忠:豊臣政権の大名
※この「江戸期以前」の解説は、「土佐国」の解説の一部です。
「江戸期以前」を含む「土佐国」の記事については、「土佐国」の概要を参照ください。
- 江戸期以前のページへのリンク