江戸期・横綱の考案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/28 10:23 UTC 版)
江戸時代には、勧進相撲が取り行われるようになり、19世吉田追風は「横綱」を考案し1789年(寛政元年)11月、谷風梶之助・小野川喜三郎に横綱を免許した。その伝達式の後、両力士は太刀持ちと露払いを1人ずつ従える現代と同じ形の横綱土俵入りを披露。1791年に上覧相撲が予定されていたこともあって、19代吉田追風は派手なデモンストレーションとして横綱土俵入りを企画したが、これがたちまち江戸中で大評判となった。 1791年(寛政3年)および1794年(寛政6年)に、11代将軍徳川家斉の上覧相撲を奉仕し、武家相撲の作法および土俵の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。 一方、相撲節会以来の司家を名乗る京都の五条家が1823年(文政6年)、谷風・小野川の先例に目をつけて柏戸利助と玉垣額之助 (4代)に独自で横綱免許を与えた。これに対し20世吉田追風は先代の発案した横綱免許を五条家に奪われる危機感から、江戸幕府に対し自らの相撲指揮権について確認することを要求、1827年(文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、翌1828年(文政11年)正月、江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、司家としての権威を固めた。同年2月には阿武松緑之助に横綱免許を与えたことにより、事実上ここに横綱が制度化した。また、行司の最高位である立行司の免許も吉田司家が発行していた。
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