信仰対象としての朝熊山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 15:09 UTC 版)
1894年(明治27年)に、近くの経ヶ峯から複数の平安時代末期の1173年(承安3年)の銘のある経筒が発見されたほか、1960年(昭和35年)の伊勢湾台風でも経塚が発見され、この平安末期には埋経信仰があったことが確認された。このときの出土品の経筒などは1963年(昭和38年)に国宝(考古資料)に指定され、経塚は1966年(昭和41年)に朝熊山経塚群として国の史跡に指定された。「線刻阿弥陀三尊来迎鏡像」などの「朝熊山経ヶ峯経塚出土品」は、当寺境内にある宝物館で見ることができる。 朝熊山付近では江戸期以降、宗派を問わず葬儀ののちに朝熊山に登り、金剛證寺奥の院に塔婆を立て供養する「岳参り」「岳詣(たけもうで)」などと呼ばれる風習がある。 また寛永7年(1630年)に秋田氏の祖で常陸国宍戸藩主秋田実季が山麓に蟄居させられている。豊臣秀吉の勘気を受けた尾藤知宣が潜伏したり、関ヶ原の戦いに際して福原長堯がこの地で自害したなど、アジール的な空間でもあった。
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