尾藤知宣
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尾藤 知宣(びとう とものぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。通称は甚右衛門、後に左衛門尉と称す。諱は重直、知定、知重、光房ともいう。
- ^ 死亡時期については諸説あり。
- ^ 白川 1997, p. 156.
- ^ a b c d 大日本人名辞書刊行会 1926, p.2177
- ^ 婿養子で、石田三成の長女が嫁いだ山田隼人正勝重の縁者という。
- ^ 白川 1997, p. 152.
- ^ 白川 1997, pp. 152–153.
- ^ 白川 1997, pp. 153–154.
- ^ a b c d e f g h i 桑田 1971, p. 62.
- ^ a b c d e f 白川 1997, p. 154.
- ^ 『改正三河後風土記』
- ^ 宮本義己「戦国「名将夫婦」を語る10通の手紙」『歴史読本』42巻10号、1997年。
- ^ 長可が自分の妻である池田氏に宛てたものであるという研究結果が提示されている。本来の宛所の位置に「尾藤甚右衛門、この由御申し候べく候」云々とあり、返し書(追而書)が本文の後にくる変則的な書式のため従来の研究者は幻惑された、とされている[11]。
- ^ 大日本史料11編17冊272頁.
- ^ 大日本史料11編17冊286頁.
- ^ 大日本史料11編17冊296頁.
- ^ 大日本史料11編18冊367頁.
- ^ 福山寿久 編 国立国会図書館デジタルコレクション 『信濃史蹟. 上』信濃新聞社、1912年、268-269頁 。
- ^ 小林 1989, pp. 50, 210–211.
- ^ 白川 1997, p. 154-155.
- ^ a b c d 白川 1997, p. 155.
尾藤知宣(びとう とものぶ)
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「センゴク」の記事における「尾藤知宣(びとう とものぶ)」の解説
通称は甚右衛門。秀吉譜代の家臣で黄母衣衆の一人で、後に竹中半兵衛の寄騎となる。同じ黄母呂衆の神子田と同じく権兵衛の事をあまり良く思っていなかったが手取川の戦いで権兵衛に助けられて以来、打ち解けた。泳ぐことが苦手。中国攻めの最中に5000石に加増される。小牧・長久手の戦いでは、物覚えが良く、早馬ということを見込まれ、戦の鍵となる池田恒興の調略という大任を命じられる。恒興調略の功により出世しており、紀州征伐の熊野侵攻の際は軍監として権兵衛・高虎を統率して湯川党と交戦したが、想定を超える敵の大軍に加え、過酷な山中戦を強いられたことで精神的に追い詰められたが、奮闘する権兵衛に感化される形で持ち直し、権兵衛・高虎と共に生還した。その後の四国征伐でも権兵衛と共に讃岐方面軍に配されている。戸次川の戦いの失態で改易処分となった権兵衛の後任の軍監に就任したが、根白坂の戦いでの大勝後、権兵衛の二の舞を避けるために慎重策をとって敗走する島津軍を追撃する好機を逃したことが秀吉の怒りを買い、改易処分となり、人々は「進んだ仙石ご改易、進まぬ尾藤もご改易」と歌った。小田原後、天下人として行軍する秀吉の前に不用意に進み出てしまい、勘気を蒙り斬首と処される。神子田同様、「絶対話しかけてはいけない時」に話しかけ命を失う結果となった。後に秀吉は権兵衛に対し「やりすぎた。殺しまでする気はなかった」と吐露している。
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