おがさわら‐ながとき〔をがさはら‐〕【小笠原長時】
小笠原長時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 10:24 UTC 版)
小笠原 長時(おがさわら ながとき)は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。小笠原流弓馬術礼法宗家。信濃四大将のひとり。
- ^ a b c d e f g h 今井尭 1984, p. 273.
- ^ 国史大辞典
- ^ 『長野県史 通史編 第3巻 中世2』
- ^ 三好氏は阿波国守護細川氏の被官で、鎌倉時代の阿波守護小笠原長清の後裔を称し、小笠原氏と一族意識を持っており、長時は長慶や京都小笠原氏など同族間ネットワークを駆使したことが指摘されている。
- ^ この時期、奉公衆大和晴完から醍醐寺に充てた別の書状から永禄元年6月に長慶が一時重態になったことが知られる。
- ^ 『醍醐寺三宝院文書』所収某年6月29日「小笠原長時書状」
- ^ 村石正行「小笠原長時の外交活動と同名氏族間交流」『史学』第82巻1・2号、2013年。/所収:花岡康隆 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』戎光祥出版、2016年。ISBN 978-4-86403-183-7。
- ^ 永禄4年閏3月4日付義輝御教書「上杉家文書」、また長時・貞虎(貞慶)は本門寺(大阪府高槻市)に対して旧領復帰を祈念し寺領寄進を約束している。
- ^ 武田氏は信長・義昭政権と友好的関係を築いている。
- ^ 義輝が景虎に長時帰国支援を命じた永禄年9月10日には甲越間の最大の激闘であったと言われている第四次川中島の戦いが発生しており、これを機に甲越間の北信地域を巡る争いは収束している。
- ^ 「上杉景虎書状」天正六年霜月三月
- ^ 林哲『会津 芦名四代』(歴史春秋社)48・49頁
- ^ 平山(2011)、pp.60 - 61
- ^ a b 林・172頁
- ^ 林・172-173頁
- ^ 林・173頁
- ^ 林・173頁。長時の享年は史料によってばらつきがあるが65〜70歳とされており、「常識的に考えれば家臣の妻と戯れるような年齢ではない」と言われる。
- ^ 小笠原長時の墓 会津若松市公式ホームページより
- ^ コトバンク 小笠原長時
- 1 小笠原長時とは
- 2 小笠原長時の概要
- 3 小笠原長時が登場する作品
小笠原長時
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信濃守護職・小笠原家総領。晴信曰く「お前など(村上義清より)もっと敵ではない」らしく、単行本四巻刊行現在、晴信に一蹴された場面(勘介と幸隆の紙芝居)以外に登場はしていない。
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