小笠原忠幹とは? わかりやすく解説

小笠原忠幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/14 16:26 UTC 版)

 
小笠原 忠幹
小笠原忠幹像
時代 江戸時代後期
生誕 文政10年9月14日1827年11月3日
死没 慶応元年9月6日1865年10月25日
改名 幼名:鋭吉、豊松丸、初名:貞幹、棟幹
官位 従五位下兵部少輔信濃守従四位下大膳大夫侍従左京大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂
播磨安志藩主→豊前小倉藩
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原長武、母:不詳
養父:小笠原忠嘉
兄弟 忠幹棟敬
正室:小笠原忠固の養女
継室:柳沢里顕の娘
貞孚忠忱、きん、登代子
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小笠原 忠幹(おがさわら ただよし)は、江戸時代後期の大名播磨国安志藩の第6代藩主、のち豊前国小倉藩の第9代藩主。忠脩系小笠原家11代・小笠原家宗家10代。安志藩主時代は貞幹(さだよし)と名乗った。安志藩の第5代藩主・小笠原長武の次男。

生涯

天保10年(1839年)12月14日、父・長武の死去により、家督を相続し安志藩主となった。天保13年(1842年)10月15日、第12代将軍・徳川家慶に拝謁する。同年11月1日、従五位下・兵部少輔に叙任する。後に信濃守に改める。

万延元年(1860年)11月6日、本家の豊前国小倉藩主・小笠原忠嘉の死去により、末期養子として家督を相続し小倉藩主となった。それにともない、長男の貞孚が安志藩主になった。文久元年(1861年)12月16日、従四位下に昇進し、大膳大夫に改める。後に左京大夫に改める。文久3年、14代将軍・徳川家茂が上洛したときは、その警護を務めている。元治元年(1864年)5月5日、侍従に任官し、左京大夫に改める。

第二次長州征伐中の慶応元年(1865年)、39歳で死去した。小倉藩は次男の忠忱が継いだが、忠忱が幼少のため、忠幹の喪は秘された。死去が公にされたのは、小倉城を自焼し、藩庁を田川郡香春に移した後の慶応3年(1867年)だった。

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