小笠原忠総とは? わかりやすく解説

小笠原忠総

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/15 13:20 UTC 版)

 
小笠原忠総
小笠原忠総像
時代 江戸時代中期
生誕 享保12年8月22日1727年10月6日
死没 寛政2年11月8日1790年12月13日
改名 只次郎(幼名)、忠総
別名 政之助
戒名 諦観院殿真乗道円
墓所 東京都台東区松が谷海禅寺
官位 従五位下伊予守従四位下侍従左京大夫兵部大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治家斉
豊前小倉藩
氏族 府中小笠原氏
父母 小笠原忠基:常(木村重房の娘)
兄弟 忠貞、長吉、長逵、久吉、長良、忠総、長周、利代姫、幾姫、幸姫、多賀姫
正室能姫浅野吉長の養女)
側室:魏
富姫
養子忠苗
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小笠原 忠総(おがさわら ただふさ)は、豊前国小倉藩の第4代藩主。小笠原家宗家5代。

生涯

享保12年(1727年)8月22日、第3代藩主・小笠原忠基の6男として豊前国企救郡小倉小倉城?)で生まれる。はじめ阿波徳島藩主・蜂須賀宗鎮の養子になる予定であったが、寛保元年(1741年)に長兄の忠貞が死去したため、養子縁組を解消して父から世子に指名された。同年12月、従五位下、伊予守に叙任される。宝暦2年(1752年)、父の死去により家督を継いだ。

藩政においては、犬甘知寛を家老として登用し、藩財政再建を目指す。そして倹約令の強化、身分制の強化、税制の強化、借上などを行なう。寛政2年(1790年)11月8日に死去した。享年64。

跡を養子の忠苗が継いだ。

系譜

脚注





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