統一
(全国統一 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/17 13:14 UTC 版)
統一(とういつ)とは、ある枠組みで分類されるものを一つの規格にまとめること。複数のものを組織化・系統化してひとつにまとめあげること、あるいは、分立するものを一つに統合し支配することである[1][2]。
政治的場面における統一は以下の通り。
中国
秦による中国統一以前に存在した殷は邑制国家連合、周は封建制度であったため、統一国家ではなかった。
中国の歴史では、統一王朝が滅亡すると、次の統一王朝が誕生するまで大概群雄割拠となった。
- 国共内戦で中国共産党に敗れた中国国民党(国民政府)だったが、台湾で中華人民共和国建国後も中華民国を存続させている。1990年代以降は九二共識に基づいて両党とも対話による中国統一を模索しているが、同時期に民主化が進んだ台湾では民主進歩党等の影響によって台湾独立運動も盛り上がっており、台湾問題は複雑さを増している。
日本
- 封建諸侯が、弱体化した室町幕府に取って代わろうとする抗争。豊臣秀吉が天下統一を果たした。
- 明治政府
- 幕府や藩による武家政治から明治新政府による天皇中心の大政奉還、版籍奉還、廃藩置県などを経て近代中央集権国家へ転換した。
朝鮮半島
大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
-
→詳細は「朝鮮統一問題」を参照
- 米ソ代理戦争。日本の総督府統治終焉後、米国とソ連が朝鮮を分割占領し、アメリカが韓国を、ソ連が北朝鮮を建国。冷戦期を通じ、朝鮮の正統な国家として体制競争を行なう。今なお未統一。
ベトナム
- 米ソ代理戦争。北ベトナムがアメリカの傀儡国家と目されたベトナム共和国を打倒し、傀儡国家南ベトナム共和国を樹立。その後、北ベトナムが南ベトナム共和国を吸収し、統一国家としてベトナム社会主義共和国を樹立。
ドイツ
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)(ドイツ再統一、1990年)
- 米ソ代理戦争。西ドイツは統一に積極的だったが、東ドイツは消極的だった。ベルリンの壁崩壊により、東ドイツの存在意義が消滅し、そのまま統一に雪崩れ込む。
- しかし、大ドイツ主義の観点から考えれば、現在のドイツとオーストリアはドイツ民族を分かつ分断国家だと言え、過去の例である神聖ローマ帝国とドイツ第三帝国を除けば単一民族による「大ドイツ」は依然として統一されていない。ただナチス政権下によるオーストリア統治の実態、戦後のオーストリア再独立の経緯、更に欧州連合のことも考えると、現在では統一の必要性を見出すことが困難であるのも事実である。アンシュルスも参照のこと。
関連項目
脚注
全国統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:01 UTC 版)
天正13年(1585年)、佐々成政を越中に攻め、織田信雄を家臣として従軍させる。 天正14年(1586年)、秀吉は徳川家康を上洛させ、臣従させようと試みていた。なかなか従わない家康に対し、秀吉は生母の大政所を人質として家康のもとへ送った。上洛した際の家康の身の安全を保障する一方、母の身に何かあれば家康討伐の大義名分が立つわけである。こうした策の前に、家康も遂に上洛して秀吉に臣従せざるを得なくなった。なお、この頃には越後の上杉景勝、安芸の毛利輝元らも秀吉に臣従することを誓っていた。また豊後の大友義統も隠居の父・義鎮に上坂してもらい秀吉に臣従を誓う。そして天正15年(1587年)には九州を席捲しつつあった薩摩の島津義久を、惣無事令に違反したとして討ち、屈服させ(九州征伐)、西国は完全に豊臣氏の支配下に入った。 天正18年(1590年)、惣無事令に違反した北条氏政・北条氏直親子を、23万人の兵力を動員して攻略(小田原征伐)。この時に東北の伊達政宗や最上義光らにも臣従を誓わせ(奥州平定)、天下統一した。豊臣政権が日本全国に威令が及ぶ日本の統一政権として成立したのである。 天下が統一されたという実情に関しては、葛西・大崎一揆と南部氏の内乱である九戸政実の乱などに見られる。秀吉はこれら乱の鎮圧に蒲生氏郷・石田三成らを大将に6万人の軍勢を奥州の僻地に派遣している。これは室町幕府第8代将軍・足利義政以来の室町幕府にはできなかったことであり、秀吉による天下統一が成った結果であると判断できる。これは九州においても同様で、肥後国人一揆と梅北一揆に対して徹底的な鎮圧と関係者の処分を行っている。 一方で、初期の功臣たちですら厳しい処置が執られるようになった。信長家臣時代の秀吉を支えた神子田正治・尾藤知宣はそれぞれの過失により勘気を被って追放されていたが、神子田正治は天正15年(1587年)に自害を命じられ、首は京都一条戻橋に晒された。尾藤知宣も天正18年(1590年)に処刑された。両名ともに秀吉の権威を損なう放言をした者であり、特に関白宣下以後、秀吉は家臣が秩序を乱す振る舞いをすることを許さなかった。
※この「全国統一」の解説は、「豊臣政権」の解説の一部です。
「全国統一」を含む「豊臣政権」の記事については、「豊臣政権」の概要を参照ください。
「全国統一」の例文・使い方・用例・文例
- 全国統一のページへのリンク