神子田正治
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神子田 正治(みこだ まさはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。備中庭瀬城主。通称は半右衛門、半左衛門、半左衛門尉。姓の漢字は、御子田(みこだ)とも表記する。
- ^ 桑田 1971, p.105
- ^ 『北藤録』に秀吉創業の家臣として列挙する9名に「神子田半右衛門通清」とあり[1]、『寛政重修諸家譜』の蜂須賀家政の項にも羽衣石城救援の将として荒木平太夫と神子田通清の名が見られる。
- ^ a b c 山鹿 1915, p. 506.
- ^ 『武家事紀』による[3]。
- ^ 谷口 1995, p. 410.
- ^ 桑田 1971, p. 65.
- ^ 柴田顕正 編『国立国会図書館デジタルコレクション 岡崎市史. 別巻下巻』岡崎市、1935年、104-105頁 。
- ^ 桑田 1971, p. 65-67.
- ^ 桑田 1971, p. 67.
- ^ 高柳 & 松平 1981, p. 240.
- ^ 山鹿 1915, p. 507, 第十四続集.
- ^ 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、410-411頁。ISBN 4642027432。
- 1 神子田正治とは
- 2 神子田正治の概要
- 3 関連作品
神子田正治(みこだ まさはる)
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「センゴク」の記事における「神子田正治(みこだ まさはる)」の解説
通称は半左衛門尉。秀吉譜代の家臣の一人で黄母衣衆に所属する。竹中半兵衛にその才を認められており、後に半兵衛の寄騎となる。今馬良と称されており白眉殿と呼ばれている。知恵の回らない権兵衛の事は余りよく思っていなかったが、共に戦う内に打ち解けた。中国攻めの最中に5000石に加増される。しかし、小牧・長久手の戦いにおいて敵前逃亡の責を問われ改易、高野山に配流となった。その後、九州征伐の陣中にあった秀吉の元を訪れて寛恕を乞うたが、折り悪く、部下の失態で秀吉が苛立っていた時であり、怒りを蒙って即座に斬首されて後日、京にて晒し首となった。
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