豊臣家臣時代
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天正18年(1590年)の小田原征伐では、主家の那須氏が遅参して改易されたのに対し、盛泰は参陣して所領を安堵されたものの安堵された石高は僅かに800石であった。同年の奥州仕置の中途で蘆野に秀吉の軍が立ち寄った際には、茶亭を構えて抹茶を点てて諸将を厚く持て成し、これに感じ入った秀吉は腰刀と黄金を盛泰に与えた。文禄の役#文禄の役に関しては 寛政重修諸家譜に記述が無いが、周辺の那須衆は全て参陣しており、おそらくは名護屋城に着陣していたと思われる。 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなった際には那須七騎の諸将で唯一秀吉より遺品の譲渡があり、孫六の刀を授けられるなど秀吉の覚えは決して悪くなかったが、存命中に石高の加増はなかった。慶長4年(1599年)閏3月4日、死去。享年44。この為、家督を嫡男・政泰が僅か8歳にして相続する事になった。
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豊臣家臣時代
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豊臣秀吉の直臣となり、天正15年(1587年)、河内国高安郡のうち500石を与えられる。天正18年(1590年)摂津国豊嶋郡に300石を加増され、文禄・慶長の役では肥前国の名護屋城に在陣している。翌年、河内国交野郡に700石を加増され、父の遺領を合わせて1500石を知行した。
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豊臣家臣時代
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天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の一報は当日の深夜には、堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった一行に、茶屋四郎次郎によって届けられた。秀一は土地鑑に乏しい一行の案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。また、急使を飛ばして大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導いた。その後、これも秀一旧知の近江信楽の代官である多羅尾光俊(山口甚介の父)の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱した。 天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家が対立した際には秀吉を支持し、柴田方に味方する滝川一益領の伊勢国峰城を攻撃した。同年中に所領の加増があったか近江肥田城主となっている。同年10月23日、羽柴秀長・堀秀政と共に大坂の津田宗及の茶会に参加した。この時より名乗りが「長谷川藤五郎秀一」に変化している。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに兵2300を率いて参陣。3月には伊勢方面に布陣していたが4月になると尾張に移り、中入り作戦第4陣の三好信吉の軍に参加したが徳川軍の奇襲を受ける(長久手の戦い)。秀一は襲われる三好隊を助けようと加勢し、粉骨砕身の戦いぶりを見せるも徳川軍の猛攻に敗れ、第3陣の大将堀秀政に信吉隊敗走を報じる使いを出すと、自身も撤退した。5月1日に羽柴軍の主力が美濃へと転身する際には日根野弘就・細川忠興・木村重茲・神子田正治らと羽柴軍の殿軍を努め、追撃を仕掛けてきた織田信雄の軍と交戦した。 天正13年(1585年)3月、紀州征伐に参じて千石堀城の戦い、第二次太田城の戦いで武功を挙げた。。同年8月、領地を加増され越前国東郷(現・福井県福井市東郷二ケ町)15万石の領主となる。天正14年(1586年)1月14日、昇殿。同年4月9日、四位に昇進。天正15年(1587年)2月の九州征伐にも参陣。この頃には羽柴姓を与えられ「羽柴東郷侍従」を名乗っていた。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍して山中城攻撃に兵3,000を率いて参加した。
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豊臣家臣時代
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天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去した後は織田信雄に仕えたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に滝川一益の誘いによって羽柴秀吉陣営に寝返り、伊勢国の松ヶ島城の海上封鎖、三河国沿岸の襲撃、蟹江城合戦に参加した。同年蒲生氏郷が南伊勢に入部すると嘉隆は氏郷の与力として配属された。しかし秀吉に出仕後も、信長同様に水軍の頭領として重用され、天正15年(1587年)の九州平定、天正18年(1590年)の小田原征伐などに参陣している。奥州仕置での氏郷の会津転封には随行しなかった。 天正13年(1585年)には従五位下・大隅守に叙位・任官する。そして答志郡鳥羽(鳥羽市鳥羽)の地を本拠地と定め、鳥羽城の築城に着手した。 嘉隆は慶長の役には出陣せず、慶長2年(1597年)に家督を子の九鬼守隆に譲って隠居した。
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豊臣家臣時代
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天正14年(1586年)11月1日、京へ上り、11月5日に正三位に叙される。このとき、多くの家康家臣も叙任された。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。 天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜された。 同年12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託された。12月28日秀吉の推挙によりさらに朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に任ぜられる。このことにより、このころの家康は駿府左大将と呼ばれた。 家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛ての5月21日付起請文で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。 家康が北条親子のことを讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない 今月中に兄弟衆を京都に派遣する 豊臣家への出仕を拒否する場合、娘(氏直に嫁いだ督姫)を離別させる 家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもある北条氏規を上洛させるなどある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じなかった。天正18年(1590年)1月、家康は嫡男とみなされていた三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせることで改めて秀吉への臣従の意思を明確にして北条氏と事実上断交し、これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供し、4月には吉川広家が豊臣家の城番として岡崎城に入城している(小田原征伐)。 なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得た知識と経験は新領地の関東統治に生かされた。 天正18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。家康の関東移封の噂は戦前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが、結局北条氏の旧領国に移されることになった。 秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したと考えられている。一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった。ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が徳川家中に流れている(『家忠日記』天正20年2月6日条)。 この移封によって三遠駿と甲信(上杉の北信を除く)119万石(徳川家内の「五ヶ国総検地」では実高150万石とも)から関東250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと考察している。この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城とした。なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していた。 8月1日に江戸へ入府した家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。 家康によって配された有力家臣たちは以下の通りである。 国名領地名石高家臣名備考上野国箕輪(後に高崎)12万石 井伊直政 館林10万石 榊原康政 厩橋3.3万石 平岩親吉 白井3.3万石 本多康重 ただし、1.3万石は父広孝分とされる。 宮崎(小幡)3万石 奥平信昌 藤岡3万石 依田康勝 大胡2万石 牧野康成 吉井2万石 菅沼定利 総社1.2万石 諏訪頼水 頼忠説もある。 那波1万石 松平家乗 下野国皆川1万石 皆川広照 下総国結城兼常陸国内土浦10.1万石 結城秀康 矢作4万石 鳥居元忠 臼井3万石 酒井家次 古河3万石 小笠原秀政 関宿2万石 松平康元 山崎1.2万石 岡部長盛 康綱説もある。 蘆戸(阿知戸)1万石 木曾義昌 守谷1万石 菅沼定政 多古1万石 保科正光 佐倉1万石 三浦義次 久能宗能説もある。 岩富1万石 北条氏勝 武蔵国岩付(岩槻)2万石 高力清長 騎西(寄西)2万石 松平康重 河越1万石 酒井重忠 小室1万石 伊奈忠次 松山1万石 松平家広 忍1万石 松平家忠 羽生1万石 大久保忠隣 2万石とも。 深谷1万石 松平康忠 東方1万石 戸田康長 本庄1万石 小笠原信嶺 阿保1万石 菅沼定盈 八幡山1万石 松平清宗 上総国大多喜10万石 本多忠勝 当初は万喜とも。 久留里3万石 大須賀忠政 佐貫2万石 内藤家長 鳴戸(成東)2万石 石川康通 相模国小田原4.5万石 大久保忠世 甘縄1万石 本多正信 伊豆国韮山1万石 内藤信成 天正19年(1591年)6月20日、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけて豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍を編成した。家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの鎮圧に貢献した。 文禄元年(1592年)から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった。『家忠日記』にはこの時に伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣が家康の指揮下にあったと記してある。 文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛した。これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなっている。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治制度を直接学ぶことになった。 慶長元年(1596年)5月8日、秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。 慶長2年(1597年)、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力した。このときも家康は渡海しなかった。 慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた。しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。
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