豊臣家家臣時代
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天正7年(1579年)頃には毛利氏の影響下から離れ、但馬国に侵攻してきた織田家臣の羽柴秀吉に属している。 因幡国侵攻戦に参加、天正8年(1580年)の第一次鳥取城攻防戦では、因幡若桜鬼ヶ城を任され、秀吉から因幡智頭郡2万石の領有を認められている。 しかし、天正9年(1581年)に山名豊国から吉川経家に鳥取城主が代わり、毛利氏の勢力が盛り返すと、若桜鬼ヶ城を守りきれずに消息不明となった。
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豊臣家家臣時代
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父と意見の合わなかった堯熙は開城前に隣国の因幡国へ逃れた。羽柴氏の陣を訪問したところ、秀吉に請われ家臣となる。天正8年(1580年)には因幡八頭郡に領地を給された。羽柴家から市場城主に任ぜられ、この城から山名豊国らの籠る鳥取城攻めに参加している。鳥取城が落城し、因幡平定が終了すると馬廻衆(親衛隊)の一人に加えられたという。 天正10年(1582年)には播磨国加古郡に転封となり2,000石余を領した。秀吉の晩年に御伽衆の一人に加えられていたが、秀吉死後は子・堯政と共に豊臣秀頼の傍近くに仕えたという。堯政と共に秀頼に近侍した旧室町名族には、細川京兆家の細川頼範や河内守護家の畠山政信らもいた。慶長17年(1612年)9月28日にはさらに摂津国能勢郡与野村に596石2斗が秀頼より加増されている。
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