豊臣家への帰順
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ところが、天正13年(1585年)11月13日、家康の下から秀吉の下へ出奔した。理由は「豊臣家との和睦派として家中で孤立を余儀なくされた」「秀吉から帰順を説得された」などとされるが、はっきりした理由は分かっていない。数正は三河勢の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は致命傷であった。以後、三河勢は機密漏えいに対応するため三河以来の軍制を武田流に改めることになった。 その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。この時、通称を出雲守に改め、秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、出雲守吉輝を称したと伝わる。天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると、秀吉より信濃国松本(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石に加増移封された。なお、松本の石高に関しては従来の8万石、10万石の2説がある。数正は松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力した。 文禄2年(1593年)、死去。享年61。しかし没年には異説もあり、文禄元年(1592年)12月に京都の七条河原で葬礼が行われているため(『言経卿記』)、それ以前に死去の説もある。肥前の国の陣中で亡くなった。 なお、家督は長男の康長が継いだが、遺領10万石のうち、康長は8万石、二男の康勝は1万5,000石、三男の康次は5,000石をそれぞれ分割相続することとなった。
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