豊臣家の小大名としてとは? わかりやすく解説

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豊臣家の小大名として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:32 UTC 版)

山内一豊」の記事における「豊臣家の小大名として」の解説

天正11年1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨戦である伊勢亀山城三重県亀山市攻め一番乗りの手柄をあげている。また、12年1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉の命で、家康包囲するための付城構築作業当たっている。 四国平定後、羽柴秀次豊臣秀次)が大幅に加増されると、田中吉政堀尾吉晴中村一氏一柳直末と共にその宿老1人として付けられて、天正13年1585年)には若狭国高浜城主、まもなく秀次が近江八幡転封すると、一豊も近江移り長浜城主として2万石を領した天正18年1590年)の小田原征伐にも参戦し、秀次に従い山中城攻めにも参加した織田信雄改易伴って再び秀次が尾張伊勢加増されると、一豊ら宿老衆転封して、遠江国掛川5万1000石の所領与えられた。この頃から大名として行動見られ掛川では城の修築城下町づくりを行い、更に洪水多かった大井川堤防建設流路変更川向い領する駿府城中村一氏とともに行っている。朝鮮の役では、他の秀次配下諸大名同じく出兵免れたが、軍船建造伏見城普請などを担当して人夫供出した。 文禄4年1595年)に秀次が謀反疑い処刑されこの頃に秀次の宿老であった前野長康渡瀬繁詮はこの事件の責任を負わされて、秀次を弁護した繁詮は切腹命じられ、長康は中村一氏預かりとされて蟄居後、賜死とされた。しかし一豊や田中中村・堀尾ら配下大名衆は、秀吉命令遂行して秀次らを取り調べる立場となり、秀次の処断後で逆に遺領から8000石を加増されている。 秀吉死後の慶長5年1600年)には五大老徳川家康に従って会津の上景勝討伐参加した家康留守中に五奉行石田三成らが挙兵すると、一豊は下野国小山における軍議小山評定)で諸将東軍西軍への去就に迷う中、真っ先自分居城である掛川城家康提供する旨を発言し、その歓心買って東軍に組した。この居城提供する案は堀尾忠氏事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き自分の案として家康申し出感謝受けたと言われる。また大坂の妻からの密書石田三成挙兵知らせ受けたという話も有名である。これらは話の信憑性には疑問があるものの、東海道筋の他の大名である中村一氏死の床にあり、同じく忠氏の父である堀尾吉晴刺客襲われ重傷を負うなど老練な世代が行動力失っている中で、周辺勢力東軍に就くよう一豊がとりまとめていた。三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊と接触しており、豊臣恩顧家臣衆の取り纏め役果たしていたと考えられる関ヶ原の戦い前哨戦である河田島村米野村での戦いで西軍味方した岐阜城主の織田秀信軍勢を、池田輝政浅野幸長と共に破った本戦でこれらの武将南宮山に陣取った毛利長宗我部軍などの押さえ担当したが、東軍内応していた毛利軍先鋒吉川広家隊が南宮山にいたためにさしたる戦闘もなく、輝政を残して主戦場移動した戦後小山会議去就決めかねていた諸侯徳川加担に向かわせた発言功績として評価され土佐国一国・98,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。

※この「豊臣家の小大名として」の解説は、「山内一豊」の解説の一部です。
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