豊臣家との関係を示す物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:23 UTC 版)
元和元年5月12日に捕えられた秀頼息女が東慶寺に入寺したと記されている『台徳院殿御実紀』は19世紀前半の編纂であり、同時代の日記である『駿府記』その他にはない。 漆器・蒔絵の世界では高台寺蒔絵に次いで東慶寺伝来蒔絵が有名であるが、その中に豊臣桐の紋・五七の桐の描かれた漆器も残されている。ただ、桐紋は江戸時代の『寛政重修諸家譜』では473家が使用しているほど一般的な家紋であり、これは天秀尼のものかもしれないが、そうだとは断定できない。 しかし東慶寺には 寛永19年(1642年)に父・秀頼(法名崇陽寺秀山)菩提のために天秀和尚が鋳造したとの銘文のある雲版(うんばん)が残されており、鎌倉市文化財に指定されている。 また、過去帳には、元和元年(1615年)5月23日に満世院殿雲山智清大童子とある。この日は豊臣秀頼の子・国松が京都六条河原で処刑された日である。 もうひとつの豊臣家との関係を示す物は、同時に千姫との関係を示す物でもある。
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