豊臣家の時代
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天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の検死役を務める。山崎の戦いでは秀吉の命令で堀秀政や中村一氏とともに先手の鉄砲頭として参加。天王山争奪の際に敵将を討ち取るという功績を挙げ、丹波国氷上郡内(黒井城)で6,284石となる。 天正11年(1583年)4月20日、秀吉が出陣後も吉晴は大垣城に残り氏家直通を説得して、一緒に秀吉のあとを追い賤ヶ岳に出陣した(『甫庵太閤記』)。秀吉本陣の背後の安全を請け負った吉晴の役割は重大であり、直通を賤ヶ岳出陣に踏み切らせた功績は甚大であった。吉晴と直通のやりとりは『譜牒餘録』にも見えていることからほぼ事実といえる。若狭の高浜城が与えられたのも、この働きによるものといえる。 天正11年(1583年)、若狭国高浜において1万7,000石に加増、天正12年(1584年)には2万石に加増された。天正13年(1585年)、佐々成政征伐に従軍。田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命される。また所領も若狭国佐垣(佐柿、現在の福井県三方郡美浜町)2万石に移封され、わずか60日後の閏8月には近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられて移封された。ただしこのように頻繁に所領を移されているため、佐垣では実際の所務(徴税権)などは無かったとされている(『堀尾家記録』)。また近江の要衝に所領を移されているため、吉晴は秀吉の信任を得ていたようである。 天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し、正五位下帯刀長に叙任された。 天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍。秀次の下で山中城攻めに参加。この役の途中でともに出陣した嫡子・金助が戦傷死している。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主12万石に封じられ、豊臣姓も許された。この頃、秀次から独立した立場になったためか、後の秀次事件には連座していない。この後、九戸政実の乱にも従軍して功があったという。 秀吉の晩年、中村一氏や生駒親正らとともにいわゆる「三中老」に任命されたというが、現代の研究水準では、三中老は後世に作られた実在しない制度とされている。
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