豊臣家の時代とは? わかりやすく解説

豊臣家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:20 UTC 版)

堀尾吉晴」の記事における「豊臣家の時代」の解説

天正10年1582年)の備中高松城攻めでは、敵将清水宗治検死役を務める。山崎の戦いでは秀吉命令堀秀政中村一氏とともに先手鉄砲頭として参加天王山争奪の際に敵将討ち取るという功績挙げ丹波国氷上郡内(黒井城)で6,284石となる。 天正11年1583年4月20日秀吉出陣後も吉晴大垣城残り氏家直通説得して一緒に秀吉のあとを追い賤ヶ岳出陣した(『甫庵太閤記』)。秀吉本陣背後の安全を請け負った吉晴役割は重大であり、直通賤ヶ岳出陣踏み切らせた功績甚大であった吉晴直通やりとりは『譜牒餘録』にも見えていることからほぼ事実といえる若狭高浜城が与えられたのも、この働きよるものといえる天正11年1583年)、若狭国高浜において1万7,000石に加増天正12年1584年)には2万石に加増された。天正13年1585年)、佐々成政征伐従軍田中吉政中村一氏山内一豊一柳直末とともに豊臣秀次付の宿老任命される。また所領若狭国佐垣(佐柿現在の福井県三方郡美浜町2万石に移封され、わずか60日後の閏8月には近江国佐和山滋賀県彦根市周辺)に4万石与えられ移封された。ただしこのように頻繁に所領移されているため、佐垣では実際所務徴税)などは無かったとされている(『堀尾家記録』)。また近江要衝所領移されているため、吉晴秀吉信任得ていたようである。 天正15年1587年)の九州征伐にも従軍し正五位下帯刀長叙任された。 天正18年1590年)の小田原征伐にも従軍。秀次の下で山中城攻め参加。この役の途中でともに出陣した嫡子金助戦傷死している。小田原開城後は、これらの戦功賞され関東移封された徳川家康旧領である遠江国浜松城12万石封じられ豊臣姓も許された。この頃、秀次から独立した立場になったためか、後の秀次事件には連座ていないこの後九戸政実の乱にも従軍して功があったという。 秀吉晩年中村一氏生駒親正とともにいわゆる三中老」に任命されたというが、現代の研究水準では、三中老後世作られ実在しない制度とされている。

※この「豊臣家の時代」の解説は、「堀尾吉晴」の解説の一部です。
「豊臣家の時代」を含む「堀尾吉晴」の記事については、「堀尾吉晴」の概要を参照ください。

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