豊臣家の家臣としてとは? わかりやすく解説

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豊臣家の家臣として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:05 UTC 版)

大友義統」の記事における「豊臣家の家臣として」の解説

父で隠居大友入道こと宗麟は豊臣秀吉嘆願し豊臣軍九州下向請うた(これにより豊臣傘下大名となる)。援軍として派遣され長宗我部元親仙石秀久らは共に島津軍と戦うが、戸次川の戦い大敗し家臣利光宗魚戸次統常を失う。義統は宗麟や家臣立花宗茂志賀親次佐伯惟定山田宗昌朝倉一玄、吉岡妙林尼吉岡統増、柴田礼能臼杵鎮尚、阿南惟秀、木付鎮直狭間鎮秀帆足鑑直、朽網鑑康鎮生、田北統員、清田正成、若林鎮興若林統昌問註所統景らがそれぞれの居城において奮戦するのをよそに、府内退去し島津軍豊後席捲するのを許してしまう。 しかし、天正15年1587年)秀長軍は先着していた毛利輝元宇喜多秀家宮部継潤山陽山陰軍勢合流し豊後より日向入って縣(宮崎県延岡市)を経て3月29日には日向松尾城延岡市松山)を落とし、さらに4月6日には耳川渡って山田有信の守る高城木城町)を包囲した。秀長は城を十重二十重囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰援軍出てくることを予想して根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞築いた高城孤立する形勢となったことに対し4月17日島津義久義弘家久2万大軍率いて救援向かった豊臣軍根白坂の陣城の総大将宮部継潤らを中心にした1万軍勢が、空堀板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍突破できずに戦線膠着状態に陥った。このとき、藤堂高虎小早川隆景黒田孝高宇喜多秀家家臣戸川達安らが後詰として加勢し後世根白坂の戦い」と称される激し戦闘となったその結果島津方は根白坂を突破できなかったのみならず島津忠隣戦死義久義弘都於郡城退却。後に秀吉から豊後一国豊前宇佐郡半郡併せて37万石安堵された。 同年4月に、義統は隣国豊臣大名黒田孝高の強い勧めで、夫人子供と共にキリスト教洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名受けていたが、6月発令され秀吉棄教令により、棄教した。

※この「豊臣家の家臣として」の解説は、「大友義統」の解説の一部です。
「豊臣家の家臣として」を含む「大友義統」の記事については、「大友義統」の概要を参照ください。

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