戸次統常
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:45 UTC 版)
戸次 統常(べっき むねつね)は、安土桃山時代の武将。大友氏家臣。大友氏庶流・戸次氏の第17代目当主。鎧ヶ岳城主。異説では臼杵氏からの養子ともされる[4]。
- ^ 新暦の1587年で計算するとまるまる一年ずれるため。没年は数え年。
- ^ 佐藤蔵太郎 1926, p. 105.
- ^ a b 『鶴賀城戦史』]によると、戦歿のときを天正14年(1586年)とし[1]、没年齢22歳[2]を逆推して、西暦で1565年に生まれ。
- ^ a b 『立花遺香』によると、戸次鎮連の最初の実子は誕生して1ヶ月も経たずに亡くなった。戸次中務の妻(鎮連の母)は大変嘆いて、臼杵刑部(一説には民部鑑良)の本妻と妾が同月に男子を産んだので、妾の子を中務の妻がもらい受けて、息子鎮連の養子に仕立てたのだという[9]。
- ^ 戸次七左衛門。
- ^ 嫡男「のぶつね」。「述」は義統の嫡男・大友能述からの偏諱。幼年のため、立花山城の立花宗茂の元に託されたと云う。
- ^ 柳川市史編集委員会 1997, pp. 313–314, 下巻.
- ^ a b 柳川市史編集委員会 1996, p. 116, 上巻.
- ^ 高本紫溟 編 国立国会図書館デジタルコレクション 『立花遺香』国史研究会〈日本偉人言行資料〉、1916年 。
- ^ 実際に内応したかは不明、他の南部衆が裏切ったため、同様に疑いをかけられたとも、諌言を繰り返して義統に疎まれていたためとも。
- ^ 同時に連の字を棄てて統常に改名したものと思われる。
- ^ 但し、統利は先に父・鎮連と島津の内応なので人質として薩摩へ送り込んだ。
- ^ 吉弘統幸の居城。
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