吉弘鎮信
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吉弘 鎮信(よしひろ しげのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。吉弘鑑理の嫡男。
- ^ 『大友・松野・吉弘氏関係略系図』
- ^ 田北鎮周の跡は吉弘氏から婿養子に入った田北鎮生(しげなり、のち統員に改名)が継承した(実子の鎮述(しげのぶ、日差城主)は早世していたものと思われる)。鎮周の戦死後の天正8年(1580年)、田北氏の惣領であった紹鉄が反乱を起こし討伐されると、統員が田北氏の家督を継承し、のち豊薩合戦の際に佐伯惟定と共に島津軍と抗戦した。その後、主君の大友吉統が改易されると、統員は浪人して清成作平と改名し、寛永9年(1632年)には肥後国に移住して細川忠利に仕えたとされ、名を吉弘紹傳に改めた。統員の子・統生(むねなり)の家系は日差村の大庄屋として続いたともいわれている。『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』P.116 には茂吉、掃部助、法名紹傳だけで記述されている。『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.426 吉弘氏系図 によると、始は田北平介と称す、子に吉弘治右衛門、池部彦允(彦左衛門、治右衛門。池部彦左衛門の養子)、吉弘傳左衛門、女子一名。
- ^ 『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の側室)と吉弘鎮信の娘・林クインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)。
- ^ 大友吉弘氏系図によると、吉弘鎮信と側室・林ジュリア(宗麟の室・奈多夫人の女中頭、のち宗麟の継室となった)の女・利根河道孝室。『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』吉弘系図 P.116。隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考
- ^ その際、ポルトガル船に大筒での砲撃も依頼している。
- ^ 『史料綜覧』第9編之910 535頁
- ^ 『吉弘文書』には、「辛十月十五日吉弘鎮信筑前立花陣に於て吉川、小早川の軍を討ちて功あり。十月二十七日大友宗麟吉弘家中の者初の分捕高名の着到状を披見して之を賞し激励するところあり」と記されている。
- ^ 吉永正春氏『筑前戦国史』61頁、『西国盛衰記』による。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 二 大友宗麟感状 去十五吉川・小早川敗北之砌、父子同前被付送、家中之者分捕高名之着到、銘々加披見候、別而忠儀之次第感悦候、弥可被勵御馳走事、可為祝着候、猶重々可申候、恐々謹言 十月廿七日 吉弘新介入道(鎮信)殿 P.398
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 八 大友三非斎(宗麟)書状 去廿日至高城諸軍取懸、小屋以下悉打崩、勝利之次第預注進候、手始之覚、尤珍重候、各与力被官、或被疵分捕、或戦死之様躰、令承知候、殊其方家中へも或被疵衆候歟、追而以着到承、軍忠状可調進之候、雖無申迄候、弥可被勵馳走候、右城急度落去之調儀可為祝着候、猶厳重々吉左右、待存候、恐々謹言 十月廿二日 吉弘加兵衛入道(鎮信)殿 P.400
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)128 吉弘(重代)家文書 四 大友圓斎(宗麟)書状写 於今度日州高城表、親父加兵衛入道宗仞(鎮信)戦死之次第、忠儀寔無比類候、雖然連々別而無隔心申談候之条、愚老朦氣可有推察候、雖無申迄候、親類与力家中於相残仁者、縦此度無届候共、国家大篇砌侯之間、能々有撫育奉公連続之御覚悟肝要候、可被得其意候、恐々謹言 十二月五日 (後欠) P.409。
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