美作三浦氏と宇喜多氏の攻防
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「天神山城の戦い」の記事における「美作三浦氏と宇喜多氏の攻防」の解説
天正3年(1575年)1月からは宇喜多の美作における前線基地であった岩屋城に寄る浜口家職・花房職秀や原田・沼本・菅納ら宇喜多派の国衆ら「岩屋衆」と美作三浦氏との対立が激化する。1月22日、三浦領内に侵攻して多田山(岡山県大庭郡)の占拠に及んだ岩屋衆に対して三浦方は牧清冬が出陣して夜討ちを仕掛け、敵数十人を討ち取って多田山を奪還し三浦貞広より感状を受けている。 同年2月には浦上宗景と岡本氏秀が盛んに牧清冬に書状を送り、織田信長から備前表加勢の了承を取り付けた事と山中幸盛が美作に近く応援に駆けつける事を報じて三浦氏を激励したが、この時期浦上家は直接の軍事行動を一切起こしていない。大友氏も年初より宗麟・義統親子を始めとして吉弘鎮信・志賀親度ら重臣たちが牧尚春に盛んに書状を送り、近く赤間関に出兵する事を約し、浦上・三村とよく連携するように指示している。宇喜多側もこの時期は三浦氏と争う一方で浦上とは戦っておらず、2月下旬には備前を留守にして備中に赴き小早川隆景と対三村のことに関して協議を行うなどしていた。 3月16日、三浦軍は伊賀久隆配下の加茂衆が治める美作真木山城に牧清冬が夜討ちを仕掛け、加茂衆を多数討ちとる勝利を収め真木山城を奪い取った。
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