美作の重鎮とは? わかりやすく解説

美作の重鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/20 13:14 UTC 版)

岡本氏秀」の記事における「美作の重鎮」の解説

浦上氏正式に仕え始めた時期不明であるが、氏秀は永禄年間頃より浦上宗景家臣として働き見える。永禄3年1560年)頃のものと見られる書状では、美作国人の難波左衛門神文交わして宗景との結びつき仲介しており、永禄10年1567年3月には美作西西条郡大河原貞尚が浦上家臣の三宅二郎右衛門社領分の普請課役免除申し出た三宅受け入れられなかったので11月には大河原岡本氏秀訴えて再度免除申し出ており、この時氏秀は三宅非礼詫びて免除の件を了承したこうした事からも美作浦上家臣の中でかなり高い権限持っていたことを伺わせる。 永禄11年1568年6月1日には備前片上浦伊部いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争い仲介大田原長時服部久家日笠頼房明石行雄延原景能と氏秀の6人が行っている。名を連ねた浦上家中6人の重臣の中で美作本領置いていたのは氏秀のみであり、そうした立場から浦上兄弟分以降、宗景の地盤手薄であった美作において国衆調略国衆浦上宗景との間を取り次ぐ役を担う事で重臣としての信任を得るに至ったようである。 永禄12年1569年10月には毛利氏奪われ高田城奪還を狙う三浦貞広明石長船・岡らと共に支援して高田城代香川広景を攻撃し元亀元年1570年)春頃には三浦氏高田城回復。これ以後勢力として復活果たした三浦氏家政執り仕切る牧尚春浦上氏美作取り次ぎである氏秀との間で盛んに書状やり取りされるようになる元亀2年1571年12月26日には浦上宗景三浦氏知行分の段銭100貫を毎年納めるように牧尚春命じようとしたが、氏秀はこれを仲介して春に30貫、秋に残り70の上納を依頼する」と宗景の意志三浦氏側の事情考慮した内容詰めて原田豊佐を通じて牧尚春へと送っている。また、大友宗麟仕掛け浦上氏加わっていた「毛利包囲網」とも美作責任者として宗景とは別に連絡取っていたようで、牧尚春との書状の中で山中幸盛村上武吉の名前も挙がっており結びつき見て取れる

※この「美作の重鎮」の解説は、「岡本氏秀」の解説の一部です。
「美作の重鎮」を含む「岡本氏秀」の記事については、「岡本氏秀」の概要を参照ください。

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