美作三浦氏滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:17 UTC 版)
天正2年(1574年)に宇喜多直家が毛利輝元を後盾として浦上宗景と対立し、4月に天神山城の戦いが開戦すると美作三浦氏はすぐさま牧清冬が浦上宗景に協力する旨を伝えた。しかしながら、直家の行動はそれに先んじており、既に3月の時点で美作南部の沼本・菅納・原田などの諸氏を寝返らせ、美作岩屋城の芦田正家を追放して家臣の浜口家職に制圧させており、既に備前と美作の連絡路は閉ざされていたため、有効な連携策は取れずにいた。ただ、軍事的には動けなかったが外交面では水面下で動いており、宇喜多直家と敵対していた三村元親が毛利氏と直家が勝手に同盟した事に強い不快感を持っていた事を知った尚春が分断工作を仕掛けて11月頃には三村元親を毛利氏から離反させることに成功した。翌天正3年(1575年)には大友宗麟から再び純金を受け激励され、2月には志賀鑑信から近く赤間口へ田原親宏・親賢ら豊後・筑前の諸氏を送るという事を約した書状を受け取った。 しかし、実際に大友の軍勢が毛利を攻撃することはなく、同年6月には備中兵乱を鎮圧した毛利氏は三浦領に侵攻し始め、同年9月には宇喜多直家によって浦上宗景最後の拠点であった天神山城が陥落し、三浦貞広も牧清冬から宇喜多家臣の江原久清を通じて宇喜多直家に毛利への降伏の周旋を申し入れ、9月11日に本拠高田城を明け渡し投降。高田城は三浦氏には安堵されず毛利家臣の楢崎元兼が城代として入ることとなり、貞広は一度は毛利氏に身柄を送られたが、やがて宇喜多氏預かりとなり、美作三浦氏は勢力として滅亡した。
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