美作三浦氏の復活と毛利包囲網
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「天神山城の戦い」の記事における「美作三浦氏の復活と毛利包囲網」の解説
一方、美作では撤退した宇喜多軍と入れ替わるような形で尼子再興軍の山中幸盛が高田城攻めに加勢し、永禄12年(1569年)10月に更に浦上から明石氏・岡本氏、宇喜多から長船氏の軍勢が攻め手に加わり、永禄13年(1570年)にはついに香川広景を追い三浦貞広が旧領復帰を果たし、三浦軍はその後も寺畑城など高田城の支城群を回復し同年中に一定の勢力を取り戻す事に成功する。復活した美作三浦氏の中で発言力を持ったのが老臣の牧尚春で、毛利から領地を守るために大友宗麟・浦上宗景・尼子勝久ら反毛利の勢力と積極的に書状を交わして同盟関係を結んだ。 こうして三浦氏の復活した元亀元年(1570年)より反毛利の同盟勢力の動きはより活発となる。大友宗麟は既に能島水軍の村上武吉を調略で毛利氏より離反させており、浦上宗景も今井宗久を通じて信長に貢ぎ物を送るなどして関係の改善を図る一方で、三好義継配下の篠原長房や讃岐の香西水軍らに協力を求め、備前の中で未だに支配下に納めていない児島の攻略を狙っていた。更に但馬では織田信長の支援を受けた山名祐豊が所領を回復して尼子再興軍と共闘の姿勢を見せ、因幡でも祐豊の意向で山名豊国が因幡山名氏の家督を相続した。こうして毛利に対して大友・浦上・尼子・宇喜多・美作三浦・山名・三好らが一斉に敵対の姿勢を見せる「毛利包囲網」とも言うべき状況が完成したのである。
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