美作倉敷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:01 UTC 版)
市の中心である林野(はやしの)地区は古くから交通の要衝で、戦国時代の頃から吉井川を往来する高瀬舟による物資の輸送が活発に行われた。船着場周辺には商人の蔵が立ち並び、やがて倉敷と呼ばれるようになった。江戸時代になると、最初に津山藩主になった森氏が津山城下の商人と同程度の権限を当地の商人に与え、東美作の中心と位置付けられる。森氏改易後は江戸幕府の直轄地になって代官所が置かれ、その後も物資の集散地として繁栄を続けた。 明治時代に町村制が施行。1889年に英田郡倉敷村(美作倉敷)になり、同時に窪屋郡倉敷村(現・倉敷市、備中倉敷)も発足し、岡山県内に二つの倉敷村が誕生した。その後、備中倉敷は紡績工場や鉄道等が作られる等いち早く近代化が進み、二つの倉敷の差は徐々に開いてゆくことになる。 備中倉敷の知名度が上がるにつれ、郵便や荷物の誤配が頻発する問題が発生。美作倉敷宛に正式住所を記載しても4分の1くらいが備中倉敷に送られてしまい、交通機関が未発達であった当時は大変な損害を荷主に与えることが少なくなかった。そして、1918年(大正7年)当時の町長が上記の理由から旧郷名の林野郷(はいのごう)に由来する林野(はやしの)町に改名し、備中倉敷に倉敷の名を譲った形となった。(『美作町史』より)
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