津山藩とは? わかりやすく解説

津山藩

読み方:ツヤマハン(tsuyamahan)

美作西北条郡津山藩名


津山藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/04/01 07:41 UTC 版)

津山藩
津山城古写真(撮影:松平国忠
立藩年 慶長8年(1603年
初代藩主 森忠政
廃藩年 明治4年(1871年
最終藩主 松平慶倫
美作国
居城 津山城

森家
石高 18万6500石
種類 外様大名
江戸城控間 不明[1]

津山松平家
石高 10万石→5万石→10万石
種類 親藩大名
江戸城控間 大広間(安永2年)[2][1]
大廊下(天保14年)[2][1]
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津山藩(つやまはん)は、美作国1603年慶長8年)から1871年明治4年)まで存在した森蘭丸の弟であった森忠政が初代藩主をつとめ、以降は森家、次いで津山松平家が藩主を歴任した。森家は外様大名、津山松平家は親藩である。藩庁は津山城(現在の岡山県津山市)に置いた。江戸幕府公認の石高は、幕末の時点で10万石である。

津山藩の歴史は、慶長8年(1603年)に森忠政が、小早川秀秋改易後に幕府領になっていた美作国を領したことに始まる。当時の津山藩は、美作国全域を領域とし、18万6500石の石高であった。森忠政の死後は、3代の藩主が続き、支藩として津山新田藩1万5000石と宮川藩1万8700石が創設されている。4代目藩主森長成の死後、森衆利が後継ぎとなったものの発狂し、森家は改易となった。短期間の幕府領時代を経て、越後騒動を起こし改易となっていた松平光長の養子松平宣富が10万石で入封した。跡を継いだ松平浅五郎が幼少で死去し、末期養子として松平長煕を迎えたものの5万石に減封され、藩主の死去を受けて民衆の間に不安がよぎり山中一揆が生じた。この後も幼君が続き、藩政改革が実施されない、または思うように進まず、藩政は低迷を窮めていた。7代目松平斉孝の時代に、将軍徳川家斉の子・松平斉民を養子に迎えることで、10万石に復帰した。斉民は更なる加増を望んだが、石高を現状維持した状態で領地を交換するにとどまった。斉民の後を継いだ松平慶倫の時代に明治維新版籍奉還を迎えた。明治4年(1871年)に廃藩置県によって廃藩となり、所領は津山県、北条県ついでその大部分が岡山県に編入された[注釈 1]

藩史

前史

戦国時代美作国は、出雲国尼子氏備前国宇喜多氏安芸国毛利氏などの係争地として、当地の国衆がそれぞれ有力な大名についていた[4]天正10年(1582年)、豊臣秀吉(羽柴秀吉)と毛利氏の和睦の成立により、美作国は宇喜多氏の領地となった[4][5]。しかし、宇喜多秀家関ヶ原の戦いで西軍に組したため、改易となった[4][6]

関ヶ原の戦い後、備前国と美作国の2国を領域とする岡山藩57.4万石が小早川秀秋(のち秀詮)に与えられた[7][6]。関ヶ原の戦いで西軍を裏切り、東軍の勝利を決定的とした功績が評価されての加増であった[7]。しかし、慶長7年(1602年)に跡継ぎ無きまま死去し、無嗣改易となった[7][8]。翌慶長8年(1603年)、旧岡山藩のうち、備前国1国を姫路藩主・池田輝政の次男・池田忠継に、美作国1国を川中島藩主・森忠政に与えた[7][9]。これらについては、前者が岡山藩28万石、後者が津山藩18万6500石とされている[7]

森家入封・初代森忠政

鶴山公園(津山城跡)にある森忠政銅像

津山藩前半の藩主を代々つとめた森家は、森忠政の父、森可成の代から織田信長に仕えていた[10][11]。その跡は忠政の兄・森長可が継いでいたが、小牧・長久手の戦いで戦死したため、急遽弟の忠政が家督と美濃国金山7万石を相続することとなった[10][4][12]豊臣秀吉の死後、忠政は徳川家康に接近し、慶長5年2月に川中島13.75万石を領することとなる[注釈 2][10][14]。関ヶ原の戦いでは、上田城に籠る真田昌幸真田信繁親子の抑えとして海津城(忠政の所領)を守り、上田城攻めにも加勢した[13]。その功もあって、小早川秀秋亡き後の美作国1国18万6500石を与えられた[10][15]

美作太平記」の記述によれば、忠政の美作に入国に際し、それを快く思わない土豪たちが入国を阻止しようとする動きがあったと伝えられている[16]。この一揆は、先行して入国した森家家臣の説得や内部分裂によって、未遂で終わったという[16]。入国後は、かつての美作の守護職が根拠地としていた院庄(岡山県津山市)に居住した[13][17]。しかし、院庄は低い土地で、水害に弱く防御に適さない土地であるうえ、院庄築城の責任者となっていた井戸宇右衛門名古屋山三郎による権力争いが生じ、両者が殺される事態にまで発展したために、院庄での築城は取りやめとなった[13][18]。慶長9年(1604年)、山名氏の古城跡がある鶴山をその地に定め、土地の名を「津山」と改めた[19][13][20]。旗本となっていた伯父の森可正を津山に迎えて補佐させ[注釈 3]津山城は13年後の元和2年(1616年)に完成を迎えている[22][23]

津山城の整備と同時に領内の総検地を開始し、慶長11年(1606年)には領民に向けて3つの定を触れている[24]。治水にも取り組み、吉井川などの川幅や河岸の堤防を整備している[25]

一方で、大坂の陣福島正則の改易に伴う広島城明け渡しなどで軍役を果たしたほか、様々な幕命による普請に参加し、大きな負担を与えていた[26]。世子森忠広は、徳川秀忠の養女(金沢藩前田利常の娘)を嫁がせられていたが、寛永10年(1633年)に死去している[27]。その翌年(1634年)7月、忠政が急死した[19][27]

森家の藩政

忠政死後、世子忠広や森重政が先立っていたため、外孫の森長継(関長継)があとを継いだ[19][28]。関長継は、森忠政の姉の子である関成次と忠政の娘の間に生まれた子であった[28]。跡を継ぐや、15条の法度を定めた[29]。承応元年(1652年)、長継の弟・関長政に1万8700石を分知して、宮川藩を創設させた[30][31]

延宝2年(1674年)に長継は2万石の隠居領を領して隠居し、3男の森長武(長義)が相続した[32][33]。長継の嗣子にあたる森忠継がすでに病死しており、その子森長成が年少であったため、中継ぎとして立てられた[32][34]。延宝4年(1676年)には、長継の子森長俊に1万5000石を分知し、津山新田藩を設立させた[30]。普請手伝いとその負担は長継時代にも存在し、同年には財政窮乏の打開策として、藩札の発行を始めた[34][35]。また知行や社寺領は4分の1・扶持の10分の1を没収し、田畑屋敷までもを石入れし、経費削減・増収を図った[36]

長成が成人した貞享3年(1686年)、長継の勧めもあり、長武が隠居領2万石の分知を受けて隠居し、長成が相続した[注釈 4][32][38]。25か条からなる条々を定める、長武時代の減給を取りけすなど、執権長尾勝明を中心に藩政改革に当たっているが、犬小屋普請などの負担がのしかかっている[40]

元禄10年(1697年)に長成は病死し、長継の子であった森衆利が後継ぎとなった[注釈 5][32][42]。衆利は将軍にお目見えのために江戸へ向かったが、7月に道中の桑名にて狂乱状態となり、それが幕府の知るところとなった[43][44]。8月に津山藩森家の改易が言い渡され[45]、旧津山藩領(美作国1国)は一旦幕府領となった[46][44]

津山藩森家の改易後、すでに隠居していた2代森長継の隠居領2万石を、西江原藩2万石として森家の存続が許され、幕末まで赤穂藩2万石を治めた[32][45]。また支藩である宮川藩は新見藩1万8700石、津山新田藩は三日月藩1万5000石として、存続することとなっている[45]

津山松平家・津山入封以前

徳川家康の次男(将軍徳川秀忠の兄)である結城秀康福井藩(北庄藩)75万石を治めていた[47]。その子松平忠直がその跡を引き継ぐが、乱心により蟄居を言い渡され、福井藩は50万石となり弟松平忠昌に、嫡子松平光長は高田藩25.9万石に封じられた[48]

光長治世下の高田藩では、家老小栗正矩の専横とそれに対する不満が存在し、さらに光長嫡子の松平綱賢の死去による後継争いも絡んで御家騒動に発展した[49]。この越後騒動は、最終的に天和元年(1681年)に徳川綱吉自らの判断で、光長の改易という形で裁断された[49]光長には松平綱国という跡継ぎ(弟永見長頼の子)がいたものの、越後騒動に連座する形で福山藩へ配流となって、最終的には後継者に松平直基(忠直の弟)の孫で、白河藩松平直矩の子松平宣富(当初は長矩)をあてた[49][50]。貞享4年(1867年)に赦免を受け、毎年米3万俵を支給されていた光長は、元禄10年5月に隠居してその家督を宣富が引き継いだ[51]

津山入封・松平宣富

津山藩森家改易の翌年である元禄11年(1698年)、松平宣富に津山藩10万石が与えられた[46][52]。しかしこの年に、松平家は厳しい年貢徴収をしようとしたため、前年の幕府領時代と同じ徴収基準を求め[注釈 6]、津山藩史上最初の惣百姓一揆がおきた[54]。この高倉騒動では、農民たちの要求が受け入れられたものの、首謀者たちを処刑する厳しい処置がとられている[54]。さらにこの年には江戸屋敷も焼失し、2年間にわたって再建費用を家臣から借り上げている[53]。宣富は享保6年(1721年)に死去した[55]

山中一揆と所領半減・松平浅五郎・長煕

山中一揆義民之碑

宣富の死により、当時6歳であった宣富の長男松平浅五郎が藩主となった[56]。享保11年(1726年)、勘定奉行の久保新平により財政改革が始まり、4%の追加年貢を課したほかに納期も大幅に早められた[54]。この同年、藩主の浅五郎は藩政に関わることなく、元服も果たさぬまま(浅五郎は幼名)、享保11年(1726年)11月11日に11歳で死去した[56]。後継も定まっていないままの藩主の死去により、津山藩が改易となる、山中地域が減封によって津山藩領でなくなるといううわさが流れ、自分たちがすでに納入した年貢米を確保しようとする動きが山中地域から始まり[注釈 7]、藩内に広がった(山中一揆[54][58]。農民たちの要求の一部(追加徴収の免除など)が認められたが、山中地域の農民が村役人や豪商などを容赦なく打ちこわし、実力行使で要求を実現する農民の支配地となった[59]。これを見かねた津山藩は、農民たちの武力鎮圧に踏み込み、数十人の農民たちが処刑された[59]

末期養子として、白河新田藩主・松平知清の子で当時7歳の松平長煕が後を継いだ[56]。改易もやむなしの事情であったが、石高が10万石から5万石に半減されることで対応された[56]。この際召し上げられた領地は、山中一揆の中心となった真島郡全域と大庭郡の一部であり、幕府領、のち一部は勝山藩が新設された[60]。この所領半減は、津山藩の財政をさらに圧迫させた[59]。この長煕も、享保20年(1735年)に16歳で死去した[56]

実を結ばない改革・松平長孝・康哉・康乂・斉孝

広瀬藩主・松平近朝の3男で、一旦松江藩(広瀬藩の本藩にあたり、津山藩と同じく結城秀康の流れをくむ藩)主の松平宣維の養子となっていた松平長孝が11歳で急遽藩主についた[56][61][62]。宝暦8年(1758年)以降、勘定奉行(惣呑込)佐々木三郎右衛門を中心に大幅な人事刷新、の停止、年貢増徴、倹約の徹底などの改革(宝暦の改革)がなされた[63]。しかし、宝暦11年(1762年)に佐々木三郎右衛門の伯父にあたる佐々木九郎左衛門が解雇となり、三郎右衛門も藩政への関与をやめ改革は頓挫した[64]。翌12年(1763年)、長孝は38歳で死去し、長孝の長男の松平康哉(当初康致)が11歳で藩主についた[56]

明和8年(1771年)、20歳になった康哉は「(更張)新政」と称して、改革に着手した[65]大村荘助飯村荘左衛門を側近に置き、緊縮財政政策をとった[66]。職務の明確化や訴状箱の設置などを行ったが、藩財政は好転することがなかった[67]。天明3年(1783年)には、津山での米価高騰を背景に打ちこわしが発生した[注釈 8][68]。寛政6年(1794年)、康哉が死去した[56]

康哉の死後、次男の松平康乂が9歳で藩主についた[69][70]。先代の改革を引き継ぎ勧農所の設置を行ったとされるが、そのほかの事績は詳しくわかっておらず、文化2年(1805年)に20歳で死去し、弟の松平斉孝(当初は康孝)が後を継いだ[69][70]

文化9年(1812年)、美作国・備中国の幕府領のうち約4.7万石が津山藩預地となっている[注釈 9][71]。文化14年(1817年)に斉孝は(この当時)嫡子がいないために、将軍・徳川家斉の子松平斉民を養子に迎えた[69]。そして、そのために津山藩は5万石加増され、91年ぶりに津山藩は10万石に復帰した[69][71]。(文政8年、文政非人騒動)天保2年(1831年)に斉孝は藩主の座を退き、隠居した[69][72]

将軍の子・松平斉民

斉孝の隠居に伴い、斉民が藩主についた[69]。天保7年(1836年)に、斉民は松平光長時代の25万石に復帰したいと、更なる加増をもとめたが[注釈 10]、この加増の願いは聞き入れられなかった[73]。しかし、同年に約3万石、翌8年(1837年)に約2万5000石の領土を幕府領と交換し、上知した幕府領を預所にするという体にすることで、実質的な加増が行われた[注釈 11][74]。旧来の津山藩領は内陸地であったが、この領土交換によって瀬戸内海に位置する讃岐国小豆島が編入された[74]

嘉永6年(1853年)のペリー来航に際して、藩主斉民は当時では珍しく開国論の立場をとった[75][76]。嘉永7年(1854年)の再来航では、高輪近辺の警備を命じられた[76]

安政2年(1855年)、斉民は40歳ながら隠居することとなる[69]

幕末維新・松平慶倫

斉民が隠居し、先々代の斉孝の子である松平慶倫が相続した[69]。文久3年(1863年)、津山藩に「国事周旋」の勅命が下り、慶倫は藩論を尊王攘夷にかため[注釈 12]、将軍徳川家茂の上洛に先立って上京した[78]。その後は摂津の警備も任せられた[78]。しかし次第に八月十八日の政変もあり、津山藩内でも尊王攘夷派が勢力を急速に失い、その一部は蟄居・謹慎処分を受けることとなった[78]

元治元年(1864年)に発生した第一次長州征伐では、「石州口の二番手」を命じられ、約4000人の兵士を動員した[79][80]。慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、「芸州口中軍第二軍」を命じられ、第一次と同規模の兵員を動員した[81]。しかしその際は、津山藩兵が戦闘に加わることなく、家茂の死去を受け撤兵した[82][83]

慶応3年(1867年)の大政奉還や慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで、徳川幕府が崩壊する中で、親藩である津山藩主・慶倫は朝廷からたびたび上洛を促されていた[84][85]山陽道諸藩への対応を命じられた岡山藩の軍が迫る中で、慶倫は朝廷に恭順の意を示し、京都に上洛した[86][87]徳川宗家(徳川将軍家)の跡継ぎに徳川亀之助がつくこと、その後見人には前藩主・斉民(確堂)が後見人に任命されている[88]

明治4年(1871年)に津山藩は廃藩となった[88]。この年に旧藩主であった康倫は死去し、斉民の子・松平康倫松平康民が家督を相続している[89]

歴代藩主

森家

外様大名、石高:18万6500石

氏名 受領名[90] 在職期間[90] 出自
1 森忠政
もり ただまさ
右近大夫 慶長8年2月6日 - 寛永11年7月7日
1603年3月27日 - 1634年7月31日)
川中島藩より
2 森長継
もり ながつぐ
大内記 寛永11年8月3日 - 延宝2年4月26日
(1634年9月24日 - 1674年5月31日)
津山藩家臣関成次の子
3 森長武
もり ながたけ
伯耆守 延宝2年4月26日 - 貞享3年5月27日
(1674年5月31日 - 1686年6月28日)
先代の子
4 森長成
もり ながなり
美作守 貞享3年5月27日 - 元禄10年6月20日
1686年6月28日 - 1697年6月20日)
先々代長継の嫡男・森忠継の嫡男
森衆利
もり あきとし
2代長継の子
藩主には数えない

津山松平家

親藩、石高:10万石→5万石→10万石

氏名 肖像 受領名[91][92] 在職期間[91][92] 出自
1 松平宣富
まつだいら のぶとみ
越後守 元禄11年1月14日 - 享保6年2月7日
1698年2月24日 - 1721年3月15日)
定府大名から
白河藩主・松平直矩の子
高田藩主・松平光長の養子
2 松平浅五郎
まつだいら あさごろう
なし 享保6年2月 - 享保11年11月11日
(1721年 - 1726年12月13日)
先代の子
3 松平長煕
まつだいら ながひろ
越後守 享保11年11月18日 - 享保20年10月13日
(1726年12月20日 - 1735年11月26日)
5万石に
白河新田藩主・松平知清の子
4 松平長孝
まつだいら ながたか
越後守 享保20年12月2日 - 宝暦12年閏4月29日[注釈 13]
1736年1月14日 - 1762年
広瀬藩主・松平近朝の子
5 松平康哉
まつだいら やすちか
越後守 宝暦12年 - 寛政6年8月19日[注釈 14]
(1762年 - 1794年9月12日)
先代の子
6 松平康乂
まつだいら やすはる
越後守 寛政6年8月 - 文化2年7月13日[注釈 15]
(1794年 - 1805年8月7日)
先代の子
7 松平斉孝
まつだいら なりたか
越後守 文化2年閏8月6日 - 天保2年11月22日
(1805年9月28日 - 1831年12月26日)
先代の弟
8 松平斉民
まつだいら なりたみ
三河守 天保2年11月22日 - 安政2年5月3日
(1831年12月26日 - 1855年6月16日)
将軍徳川家斉の子
9 松平慶倫
まつだいら よしとも
三河守 安政2年5月3日 - 明治4年7月14日
(1855年6月16日 - 1871年8月29日)
先々代の子

格式

津山藩松平家の祖先は、将軍徳川秀忠の兄・結城秀康であったことから、幕府から特別扱いを受けることもあった[94]。福井藩と高田藩(のちの津山藩)で所領交換が起こったことから、石高では弟筋である福井藩に劣るも、福井松平家は「本家」、津山松平家は「嫡家」と称していた[95]

津山藩の松平家の当主は、夭逝した浅五郎を除いて「三河守」もしくは「越後守」を名乗っていた[92]。特に「三河守」は、徳川家康の出生地が三河国であることや、徳川家康・結城秀康・松平忠直の3代にわたって任官されたものであることから、遠慮をして他の大名が名乗ることがなかった称号であった[96]。その後は、松平綱国と松平斉民(隠居後は越後守)、松平慶倫が名乗っている[97]。その他の藩主が名乗った「越後守」は、越後国高田藩60万石を領した松平忠輝や祖先・松平光長に由来する可能性が指摘されている[94]

所領

津山藩の石高変遷は以下の通り。

  • 寛文4年(1664年)、表高18万6500石とは別に、当時の新田高を4万2700石と計上する[98]

旧高旧領取調帳をもとにした旧高旧領取調帳データベースによれば、津山藩(松平家時代)の領地は以下のとおりである[99]

上記のほか、幕府領のうち、東北条郡7村、大庭郡27村、西西条郡32村を預所として管轄していた[99]

支藩

津山新田藩

津山新田藩(つやましんでんはん)は、森家時代の津山藩の支藩であり、基本的には森長俊が立藩したものを指す。

森長俊の支藩

延宝4年(1676年)、津山藩3代藩主・長武の弟の長俊が勝北郡北部1万5千石を分知され、立藩した。元禄10年(1697年)、津山藩森氏廃藩に伴い、播磨三日月藩(1万5千石)に転封となり、長俊1代で廃藩となった。

森長武の支藩

貞享3年(1686年)、津山藩3代藩主・長武が甥の長成に藩主を譲った際、蔵米2万俵を与えられて立藩した。元禄9年(1696年)、長武の養嗣子となった長基が病と称し江戸への参府の命に反したため、相続を認められず廃藩となった。

宮川藩

宮川藩(みやがわはん)は、森家時代の津山藩の支藩。津山藩第2代藩主・長継の弟の関長政が1万8700石を分知され、立藩する。立藩の年は『徳川実紀』によれば寛永11年(1634年)、『恩栄録』によれば寛永14年(1637年)、『寛政重修諸家譜』では承応元年(1652年)と諸説ある。元禄10年(1697年)、津山藩森家廃藩に伴い、第2代藩主関長治新見藩に転封されて廃藩となった。

歴代藩主

関家

1万8700石 (1634年 - 1697年)

  1. 長政
  2. 長治


経済・文化

藩札

延宝4年(1676年)、3代目森長武の時代に財政窮乏の打開策として、津山藩で藩札(銀札)の発行が始まった[34][100]。津山城の築城や、度重なる軍役・普請・災害(主に水害)が財政を逼迫したとされる[100]。この時期に発行された他藩の藩札に比べても額面が高額であったことが、特徴にあげられる[100]

その後松平氏時代には、元禄13年(1700年)に発行が始まり、一時中断(宝永7年(1707年)の幕府による全国的な藩札発行停止)をはさんだものの、享保15年(1730年)以降再発行されている[101][102]。藩札は藩内のみならず、美作国全体で流通したという[101][103]

教育

かつて学問所として使用されていた鶴山館

明和2年(1765年)、5代目松平康哉の時代に内山下に藩校として学問所が設けられた[104]。さらに、天明7年(1787年)には新たに武道稽古場を設置している[104]。天保14年(1843年)、松平斉民の時代に学問所と武道稽古場が合併され、文武稽古場として整備された[105]。安政5年(1858年)、9代藩主松平慶倫の時代に教育改革が行われ、家老格から坊主格までの11歳以上の者には出席の義務が課されていた[105]。生徒規模は約350人であった[105]。明治3年(1870年)に、新築と同時に学問所から修道館に改称したものの、1871年(明治4年)の廃藩によって廃校となった[106][101]

現在のNTT西日本津山ビルの位置に修道館内の学問所があった。廃藩後には短期間だけ北条県立中学校の校舎となり、その後は共立小学校の校舎となった。また区務所、郡役所、幼稚園、私立学校、町立高等小学校、県立中学校、県立女学校などが仮でこの建物を使用した。この建物は1904年(明治37年)に鶴山公園内に移築され、この際に鶴山館という名称が付けられた[107]

洋学

津山藩は優れた洋学者を輩出しており、長崎とともに蘭学発祥の地として知られている[108]。特に津山藩医の家系である宇田川玄随、玄真、榕庵の「宇田川三代」は日本の近代科学・医学の発展に大きく貢献した[109][110]

1755年に津山藩の藩医の家に生まれた宇田川玄随は漢学を学んだ後、桂川甫周大槻玄沢に出会い西洋医学に関心を持った[111]前野良沢などの下で学んだ玄随はゴルテルの内科書を訳して、『西説内科撰要』全18巻を世に出した[111][注釈 16]。これが日本においてはじめて翻訳された内科書であり、玄随は当時の蘭学界の重鎮であった[113]。玄随の養子で同じく蘭学者の宇田川玄真は京都に生まれ、はじめは玄随門下で漢学を学んだ[114]。その後玄随の勧めで蘭学を志し、大槻玄沢らのものとでオランダ語などを学び、玄沢に推されて杉田玄白の養子となったが、杉田玄白から離縁されると、玄随の死後、宇田川家を継いで津山藩の藩医となった[115]。玄真はオランダの解剖書を訳して『遠西医範』全30巻を作成したのちに、その要領を説く『医範提綱』全3冊を1805年に刊行した[115]。『医範提綱』は当時の西洋医学を伝える書物として非常に水準の高いものであり、1808年にはその付録として亜欧堂田善による銅板解剖図が出版された[116]。玄真は蘭学の大家として当時高く評価され、加賀藩主の招きで金沢にも訪れている[117]。その後、玄真は1813年に幕府の命で天文台の訳員となり、馬場佐十郎、大槻玄沢らとともに、ショメール百科事典の翻訳に取り組んだ[117]。玄真の養子宇田川榕庵は当初漢方医学や本草学を学び、のちに西洋本草や西洋の医薬について学んだ[118]1816年にはコーヒーについての著書『可非之説』を世に出し、1822年にはリンネの植物分類を中心に西洋植物学について書いた『西説菩多尼訶』を出版し、日本に初めて西洋近代植物学を紹介した[119]。その後は製薬に必要な技術である西洋の化学に関心を向け、体系的な科学書の大著『舎密開宗』全21巻を著し、日本の近代化学の発展に大きく貢献した[110]

資料

現存している森家時代の資料は少ないが、赤穂藩や分家の三日月藩にて編纂された資料などが残っている[120]。赤穂藩にて編纂された「森家先代実録」は、津山藩森家改易から1世紀ほど経過した文化6年(1808年)に成立しており、信頼性の高い資料として扱われている[120]

津山藩の資料を展示している資料館に津山郷土博物館津山洋学資料館がある。津山郷土博物館には、愛山文庫と総称される津山松平家関連の文書が保管されており、その一つには岩佐又兵衛の作品で古浄瑠璃絵巻群と称される絵巻の一部(山中常盤物語絵巻・村松物語絵巻)の写本がある[注釈 17][122]。この他に現存しないが松平氏の蔵書目録に浄瑠璃物語絵巻・堀江物語絵巻と思われる浄瑠璃ノ巻・堀江の巻が記載されているため、この2巻も含めて、古浄瑠璃絵巻群の大半が松平家に伝来していた可能性が指摘されている[123]

脚注

注釈

  1. ただし、飛び地の小豆島香川県に編入された[3]
  2. 諸説はあるが、この転封が五大老の一員である徳川家康が初めて単独で決裁したものとされている[13]
  3. 忠政は津山を離れることが多く、重臣や近親の多くが戦没・死亡しており、権力集中が行き届いておらず、幕臣となっていた森可正を津山藩の執権職に迎えた[21]
  4. 長武は他人の言を聞き入れず、部屋住み時代からの家臣横山頼次を重用していたという[37]。「美作略史」では彼らを暴君として扱っており、幕府内部でも反省を促すほどであったとも言われている[38]。隠居後も弟森長基を養子に迎えて、別家を興そうとしたものの実現には至らなかった[39]
  5. 後述のとおり、乱心したために襲封は認められておらず、正式な藩主には数えない[41]
  6. 森家時代には「七公三民」となされていたが、幕府領となった一年のみは「五公五民」と負担が軽くなった。松平家が入部すると、「六公四民」と幕府領時代に比べて重い税金が課されるようになった[53]
  7. 山中地域(真島郡大庭郡)では、正徳元年(1711年)の大地震や正徳3年(1713年)の大雪などで被害を被っていた[57]
  8. この経験からか、津山藩は米価に合わせて米の流通量を制御しており、全国的に打ちこわしが乱発した(天明の打ちこわし)天明7年(1787年)には打ちこわしの発生が起こらなかった[68]
  9. 預地では、口米という体で、徴収した年貢のうち約2割を藩の収入に加えることができた[71]
  10. 津山松平家は、松平忠直の流れをくむ越前松平家(徳川家康の次男・結城秀康以降の家系)の嫡流であったが、忠直の弟の松平忠昌の流れをくむ福井松平家は福井藩30万石(のち32万石)と、宗家以上の石高を治めていた[73]
  11. 2度目での領土交換では、新たに津山藩領に編入された土地の方が石高が多く、実際のところは3000石ほどの加増となっている[74]
  12. 斉民らは佐幕を唱える一方で、慶倫らは勤皇を唱え、藩論は分裂していた[77]
  13. 「松平家御系図」や「美作略史」による[91]。津山藩江戸日記によれば、閏4月4日に死去[93]
  14. 「松平家御系図」や「美作略史」による[91]。津山藩江戸日記によれば、5月23日(7月14日)に相続、8月26日に死去[93]
  15. 「松平家御系図」や「美作略史」による[91]。津山藩江戸日記によれば、10月13日に相続、7月20日に死去[93]
  16. 西説内科撰要』出版に際して、玄随は藩主の松平康哉から金15両を下賜されている[112]
  17. 古浄瑠璃絵巻群とも称される岩佐又兵衛の作品群は、津山松平家の祖先にあたる松平忠直が注文したものであった[121]

出典

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  2. 1 2 落合 2006 p,766
  3. 岩下 2017 p,111
  4. 1 2 3 4 岩下 2017 p,10
  5. 松岡 1973 p,3
  6. 1 2 松岡 1973 p,8
  7. 1 2 3 4 5 倉地 2000 p,178
  8. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「mo9」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  9. 松岡 1973 p,10
  10. 1 2 3 4 倉地 2000 p,184
  11. 岩下 2017 p,11
  12. 松岡 1973 p,16
  13. 1 2 3 4 5 岩下 2017 p,12
  14. 松岡 1973 p,17
  15. 松岡 1973 p,18
  16. 1 2 松岡 1973 p,19
  17. 松岡 1973 p,20
  18. 松岡 1973 p,20-23
  19. 1 2 3 倉地 2000 p,185
  20. 松岡 1973 p,27-28
  21. 松岡 1973 p,74
  22. 岩下 2017 p,13
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  25. 松岡 1973 p,45-46
  26. 松岡 1973 p,74-77
  27. 1 2 松岡 1973 p,79
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  29. 松岡 1973 p,82-84
  30. 1 2 岩下 2017 p,26
  31. 松岡 1973 p,93
  32. 1 2 3 4 5 倉地 2000 p,186
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  40. 松岡 1973 p,103-112
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  120. 1 2 乾 2024 p,91
  121. 黒田 2017 p,6-9
  122. 黒田 2017 p,78
  123. 黒田 2017 p,78-79

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
美作国
行政区の変遷
1603年 - 1871年 (津山藩→津山県)
次代
北条県

津山藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:49 UTC 版)

幕末の人物一覧」の記事における「津山藩」の解説

松平斉民(津山藩主) 松平慶倫(津山藩主) 安藤要人(津山藩の家老箕作秋坪(津山藩の蘭学者医者。阮甫の娘婿箕作阮甫(津山藩の医者蘭学者・後に脱藩し幕府仕える) 箕作麟祥政治家省吾息子であり、阮甫の孫) 箕作佳吉生物学者・秋坪の三男津田真道皇紀呼ばれる年の表し方を作った人物政治家

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