津山藩による鎮圧とは? わかりやすく解説

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津山藩による鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 01:27 UTC 版)

山中一揆」の記事における「津山藩による鎮圧」の解説

享保12年1727年正月3日津山藩城内評定を開く。5日山田三木の両代官に「生殺与奪の権」が与えられ武力弾圧決議6日山田兵内が率い40名の鎮圧隊が久世に入る。鎮圧隊は山中地域大庄屋とともに7日山中への攻め込み決定一方一揆勢の農民800余人山中入口にあたる大山道三坂峠集結7日、この噂を聞いた鎮圧隊は出雲街道から山中の裏側にあたる美甘新庄進行する8日美甘新庄の状着2人鎮圧隊に捕まり偵察条件助命また、津山から大規模な戦闘部隊到着し真島郡黒田村(現 真庭市黒田)、三坂峠旭川川筋久世帰路峠~山久世旭川上る)の3方面から攻める。11日、状着2人偵察により真島郡土居村(現 真庭市禾津)の徳右衛門宿の様子三木代官報告12日山田三木の両代官真島郡田口村2人真島郡新庄村の3人を新庄今井河原処刑し首切峠などにさらす。両代官農民案内させ、徳右衛門らの集結する土居村潜入土居柿の木坂で徳右衛門、忠右衛門喜平次ほか32人を捕まえる。13日32人のうち25人を土居河原処刑し、うち13人を三坂峠12人を帰路峠にさらす。14日、徳右衛門喜平次の2人津山護送見尾の弥治郎も中庄屋の密告により捕まる。15日大森村の七左衛門が捕まる。16日山中百姓は、惣百姓連名詫び証文を出す。17日弥次郎、忠右衛門、七左衛門津山送られる20日最後まで抵抗した目木触(現 真庭市久世周辺)、河内触(現 真庭市川東河内周辺)が鎮圧される24日小童谷半六が捕まる。25日湯本大庄屋預かりの8人を湯本下河原処刑し、熊居峠にさらす。閏正月2日目木触と河内触の指導者7人を久世河原処刑する。これらの々が詫び証文出し、四歩加免以外は認められず、取り返した米も返納させられた。状宿・状着の制度廃止し庄屋制が復活した3日半六津山護送

※この「津山藩による鎮圧」の解説は、「山中一揆」の解説の一部です。
「津山藩による鎮圧」を含む「山中一揆」の記事については、「山中一揆」の概要を参照ください。

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