武力弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:25 UTC 版)
6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。 実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された。 その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、戒厳令実施の責任者である李鵬首相の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が、天安門広場を中心にした民主化要求をする大学生を中心とした民衆に対して投入された。 複数の外国メディアや大使館からの公電によれば、解放軍の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で民衆に対して無差別に発砲したと伝えられた。 この際に、中国人民解放軍のトラックは、事前に民衆に襲撃されており、武器や弾薬の一部が奪われていた。現場に居た四君子の一人である高新の証言によると、当時の天安門広場には、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル1丁、機関銃1丁があり、民衆は非武装・無抵抗ではなく人民軍と戦闘を行う準備がある程度は整っていた。 広場へと続く道路では民衆がバスを横転させ放火し、炎のバリケードを作り、橋の上からは石やコンクリートブロックを兵士に投げつけた。兵士の一部はデモ隊に巻き込まれ、暴行され、撲殺される者も居た。 或いは逃げ遅れた兵士を民衆が捕まえ、ガソリンを掛けて燃やし、死体を陸橋にぶら下げるなど、民衆による残忍な行為もあった。人民軍第54軍では民衆の暴行を受け、死者1名、重傷246名、軽傷1,500名、失踪150名という被害を受けたが、上層部からの命令を守り、最後まで発砲しなかった。 天安門事件を研究している二十一世紀中国総研のディレクターで横浜市立大学名誉教授の矢吹晋はこの状況について、人民軍の発砲は味方が死傷する様な重大局面で行われており、一方的な虐殺ではなく双方に被害のある市街戦だったと述べている。 また、矢吹は89年12月4日の『読売新聞』夕刊においても、天安門での虐殺は不確かな噂やデマに基づく誤報だと指摘した。一晩中現場に居たスペイン国営テレビの極東支局特派員ファン・レストレポ記者も同じく、本国のマドリードに送ったテープが恣意的に編集され、広場での虐殺という歪んだ事実が報道されてしまったと述べている。しかし大量の虐殺が広場でなかったとはいえ広場での数名の死者や多くの重軽傷者、そして広場以外で少なくとも300人以上が殺害されたとの厳しい指摘が存在する。 広場へ続く道路での武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に人民解放軍の説得に応じて広場から退去した。 また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた。 なお、学生運動のリーダー達の一部は、武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により中国国外へ亡命した。1995年に製作されたアメリカのドキュメンタリー映画「天安門THE GATE OF HEAVENLY PEACE」の中で、事件発生時に既に脱出していた学生側リーダーの柴玲はインタビューに対し、「流血を期待していた(其实我们期待的就是流血)。中国共産党政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。」と発言した。現場に居なかった柴玲は広場で戦車が学生を押しつぶしたと泣きながら証言したが、最後まで現場に残って学生が脱出するためのトラックを手配していた候徳健(台湾から亡命してきた有名作曲家)は、戦車は広場の外に居たし広場で虐殺など全く起きなかったと証言している。また、学生側リーダーの一人だったウーアルカイシも広場で千人が殺されたと証言したが、これについても候徳健は、「自分は午前6時半まで現場にいたが、広場では一人の死者も見ていない。ウーアルカイシは既に現場から脱出しており、事件を目撃していない」と証言している。 武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜洲電視、アメリカのCNNを始めとする、中国国内外のテレビ局によって世界中に中継された。その映像は無差別発砲による市民の虐殺と看做され、世界中から多くの非難が中国政府に浴びせられた。 武力鎮圧のために進行する中国人民解放軍の戦車の前に1人の若者が飛び出して戦車の進路方向の前に立ち、その戦車の走行を阻止しようとした男性「無名の反逆者」の映像も放映された(Tank Man - 戦車男)。 また、AFP通信によると、2014年6月に機密解除されたアメリカ合衆国連邦政府の公文書の中に、当時の天安門広場の様子を目撃したとされる匿名の人物の話が記載されている。それによれば、楊尚昆の甥が指揮した、河北省石家庄から招集された第27集団軍(北京軍区所属)に属する非北京語話者の兵士たちは、「人々の集まりに遭遇すると、それが誰であろうとも笑いながら無差別に発砲していた」と、武力弾圧が多くの死者を出すことを意図した「残虐」なものだったと主張した内容だった 。しかし公開された機密文書の原文では、この匿名の情報提供者は事件発生当時は現場でなく北京市内のホテルの一室に滞在しており、第27集団軍の虐殺行為に関する一連の情報は「確認の取れない噂」であるとしている。また、当時現場付近に居たワシントンポストの北京支局長ジェイ・マシューズは、「何百人もの外国人ジャーナリストは天安門とは別の地域か、或いは天安門広場から離れたホテルに避難していたので、広場中央での様子を目撃する事は出来なかった」と指摘している。マシューズは広場での虐殺についても、「ウーアルカイシは銃撃で200名の学生が倒れたと言うが、彼は既に数時間前に現場から脱出していた。 伝聞や噂ではなく現場からの確かな証言から判断すれば、広場では誰も死んでおらず広場に通じる道路で散発的な死者が出た」と述べている。 天安門事件を取材したジャーナリストの相馬勝は、天安門広場の付近の路地を通る途中、広場から逃げてきたという眼鏡をかけた血まみれの学生が市民を前にして、「奴らは3歳の赤ん坊を撃ったんだ。同級生の女子学生をいま病院に送ってきたところだ。彼女は死んだ。血だらけになって…。同級生のなかには体を吹き飛ばされた者もいる。奴らは鬼だ」と涙ながらに訴えているのを目撃した(この学生の白いワイシャツは赤い血で染まっていたという)。相馬がその学生の言葉をメモに残してから天安門広場へと進む途中、相馬の姿を見た中年の男性から「お前は日本人の記者か?」と話しかけられた。男性は茫然自失した様子で、「軍が撃った。こんなことは許されない。中国はもう終わりだ。鄧小平を許さない」と語ったという。 事件当時、鄧小平は「20万人ぐらいの血の犠牲はかまわない。中国では100万人といえども小さな数にすぎない」「中国に西欧的民主主義を持ち込めば、国内は混乱し、難民が周辺地域に何億人も流出するだろう」と述べたと伝えられている。 アメリカの人権組織である「アジア・ウォッチ」のリサーチ・ディレクターであるロビン・マンローは、9月23日の香港『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』紙に、自分自身が広場に最後まで居残り、そして学生とともに撤退していった様子について、「そこにはパニックを示すようなものはなく、なにか虐殺が起こったことを示すような微かな兆候さえもなかった」と語っている。マンローは広場ではなく他の場所で起きた虐殺に注目すべきだと問題提起している。 広場での虐殺の有無や報道の矛盾について、矢吹晋は「テレビ画面に写った燃えあがる装甲車や銃弾の曳航、銃声から推察して、天安門広場の整頓過程において、大量の「虐殺」が生じたものと、多くの日本人(いや世界の人々)はイメージしたであろう。虐殺情報の発生源は学生側からのものが多い」としたうえで、それらが信憑性に欠けるものであることを指摘し、広場に居た無抵抗の市民達は一人も殺されなかったが、広場に至る路上で人民軍に攻撃を加えていた市民には多数の死傷者が出たと分析した。[信頼性要検証] 当時オーストラリア外務省の中国デスクを務め、ジャパンタイムズにも天安門事件についての論考を度々寄稿しているグレゴリー・クラークは自身が運営する個人HPの中で、「不確かな伝聞を排除すれば広場で虐殺が起きなかった事は明らかであり、むしろ学生側から人民軍への火炎瓶等を使った暴力が全く報道されない事は西側メディアの偏向を表している。兵士が銃撃した後で学生が放火したのではなく、群衆が先に兵士を火炎瓶で焼き殺した。群衆による破壊行為が兵士の仕業であると報道され、群衆の死体写真を報道する一方で群衆に攻撃された兵士の焼死体写真は報道していない。」と指摘している。[信頼性要検証]
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