武力により三河を掌握とは? わかりやすく解説

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武力により三河を掌握

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 20:37 UTC 版)

松平清康」の記事における「武力により三河を掌握」の解説

永正8年9月7日1511年9月28日)、安城松平家6代当主松平信忠嫡男として生まれる。母は大河内氏大永3年1523年)に隠居祖父・道閲(長親)や一門衆が父・信忠隠居させて、子である竹千代清康)に家督継承させた。三河吉良氏吉良持清偏諱受けて清孝(きよたか、のち清康)と名乗る大永5年1525年)に足助城鈴木重政攻めてこれを降伏させる大永6年1526年、または大永4年1524年))、岡崎松平家山中城攻撃して西郷信貞松平昌安)を屈服させる。信貞の居城であった岡崎城破棄し現在地龍頭山に新岡崎城に移転し岡崎松平氏拠点移した岡崎では岡崎五人衆代官小代官による支配体制整備また、松平氏菩提寺大樹寺勅願寺化や修築多宝塔新築松平郷から勧請し六所神社創建龍海院創建等を行った西三河実質的な支配権を得るなかで、従来支配層である三河吉良氏対す権威性の確立求められており、このころ清和源氏のひとつ新田氏一門である徳川氏庶流世良田姓に注目吉良氏対す対立軸として世良田次郎三郎名乗った。これが後に孫の家康松平から徳川改姓を行うことにもつながっているという(この経緯については世良田氏の項も参照)。清康は更に、東西に軍を進めて勢力広げる享禄2年1529年)、尾島城(小島城西尾市所在)を攻め獲る。その一方で同年5月28日新暦7月3日)に東三河にも進出して三河牧野氏今橋城(後の吉田城)を攻め落とした清康は更に吉田城南方渥美郡田原進軍戸田氏戦わず降服したので清康吉田城に兵を戻して10日間在城。この間北方設楽郡山家三方衆田峯城菅沼氏及び長篠城菅沼氏亀山城奥平氏宝飯郡牛久保牧野氏等の東三河国人衆従属させた。ただし三河東端八名郡に在った宇利城の熊谷氏だけが服属拒んだためこれを包囲し11月4日11月23日)に攻め落とした後妻華陽院松平氏水野氏破ったときの講和条件として掠取したといわれている。清康死後星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族次々嫁ぐが、いずれも夫に先立たれた。 なお、一説によれば宇利城攻め以後桜井松平家叔父信定との仲を悪化させたともいわれる。その理由挙げられるのが、宇利城攻略戦において、大手門攻め福釜松平家叔父・親盛を失った際に、支援遅れたとして信定清康罵倒したという。

※この「武力により三河を掌握」の解説は、「松平清康」の解説の一部です。
「武力により三河を掌握」を含む「松平清康」の記事については、「松平清康」の概要を参照ください。

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