明石行雄
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明石 行雄 / 明石 景親 (あかし ゆきかつ / あかし かげちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備前国の宮山城、保木城の城主と伝わる。官位は従五位下・伊予守。
- ^ 藤井駿『岡山の歴史と文化』(福武書店、1983年 ISBN 4828826009
- ^ 武元家所有『備前明石系図』
- ^ 『備前軍記』
- ^ 『来住家文書』
- ^ 『森脇覚書』
- ^ 落城時の詳細は『備前軍記』に詳しいが落城時期に誤りがあることが、田口義之「美作三星城主後藤勝基に就いて」(『岡山地方史研究』第55号、1987年)などで明らかにされている。
- ^ 『神原文庫毛利氏関係文書』小早川隆景書状
- ^ a b 『吉備群書集成』
- ^ 『久世町史資料編』第一巻編年資料(久世町教育委員会、2004年)
- ^ 小瀬甫庵『信長記』
- ^ 『美作沼元家文書』
- ^ 『美作古簡集』
- ^ 小川博毅『美作垪和郷戦乱記―竹内・杉山一族の戦国史』(吉備人出版、2002年 ISBN 4860690117)
- ^ 『萩藩閥閲録』
- ^ 『岡山県御津郡史』(御津郡教育会、1923年)
- ^ 『毛利家文書』。家久は父を直家に暗殺されたことで宇喜多から毛利へと寝返っていた。
- ^ 大西泰正『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』(岩田書院、2010年 ISBN 487294612X)
- ^ 『天正記』
- ^ 『萩藩閥閲録』
- ^ 大西泰正「明石掃部の基礎的考察」(『岡山地方史研究』第125号、2011年)
- ^ 6月28日付、『美作沼元家文書』。この書状には年の記述がないが、大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』P165によって慶長2年(1597年)に推定されている。
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