浦上氏滅亡まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/20 13:14 UTC 版)
詳細は「天神山城の戦い」を参照 天正2年(1574年)4月より始まった宇喜多直家と浦上宗景との間の天神山城の戦いでは浦上方に付いたが、宇喜多軍の岩屋城占拠や沼本・菅納氏ら弓削衆を寝返らせた美作南東部国人の切り崩し工作によって氏秀は美作に取り残され、浦上軍主力との連携が早い段階で断たれ、同年中は目立った行動も起こせずに年を越した。 翌天正3年(1575年)1月から宇喜多氏と三浦氏の交戦が始まると宗景と共に三浦軍を率いる牧清冬(菅兵衛)に書状を送り、織田信長の援軍が近いことや阿波の三好氏、因幡で活動中の山中幸盛にも援軍を依頼している事を伝えて書状で度々激励している。同年7月には備前と美作の連絡路が分断された状況を解消するために浦上軍は弓削荘の沼本久家・沼本豊盛・菅納家晴らの守る蓮花寺城・小松城の攻略を目指し、美作側から氏秀と中島隆重が侵攻し、同時に備前方の延原家次も弓削荘を攻めるという二面作戦を展開したが、この戦いで浦上軍はまさかの惨敗を喫し敗走した。この敗戦後、浦上軍は天神山城に篭ったが9月には明石行雄ら重臣が宇喜多に寝返ったことで陥落。浦上宗景は天神山城を捨てて敗走し、大名勢力としての浦上氏は滅んだ。 浦上氏滅亡後、岡本一族は宇喜多直家に仕えたが、岡本氏がかつてのように美作で大きな権力を持つことはなく、氏秀の事績もこれ以後定かではない。岡本一族の棟梁として宇喜多家軍で活躍した岡本秀広は息子であると言われるが現在のところ確定とまでは言い切れない。
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