浦上残党との戦いとは? わかりやすく解説

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浦上残党との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/27 00:46 UTC 版)

延原景能」の記事における「浦上残党との戦い」の解説

浦上領の大半併呑した直家に仕えることとなった景能であったが、景能の領地未だ宇喜多への臣従拒み美作国実力者後藤勝基などと同盟して独立勢力化した笹部勘次郎茶臼山城にほど近く緊張状態続いていた。 天正5年1577年)冬、美作真木山長福寺宗徒が嶺の外へと境を広げた時に後藤家臣の後藤左近小坂甚兵衛難波与三右衛門数百の兵を以って真木山攻め立て宗徒降伏させたが、この時に景能は美作英田郡河井荘へ間者送り占拠狙ったので、この事に気付いた真木山後藤軍勢すぐさま景能の間者軍勢攻め立て延原方の勇士10数人雑兵50人あまりを討ち敗走させた。この事件に関して景能は直家へ讒訴したが、直家から見て勝基は妹婿であるので行動起こすことはなかった(『美作太平記』)。 しかし、天正6年1578年)には勝基の家臣花房職秀所領攻め取るという事件があった。更に同年にも笹部勘次郎境界争いで景能と争った時に笹部鷺山城主・星賀光重に援軍要請して笹部・星賀軍に攻撃された景能は敗走した延原花房両家浦上残党対立はもはや限界達しており、今度両名揃って直家に後藤らの行い進言すると直家も遂に後藤らを討つことを決意したが、この年上月城の戦いがあって主力出払っていたので、実際出兵翌年持ち越された(『美作太平記』)。 天正7年1579年2月、景能は直家より兵を預けられ花房職秀と共に浦上残党掃討大将となる(『備前軍記』)。まず備前笹部勘次郎討ち果たすと、そのまま美作へ兵を進めて星賀光重を討伐し、続けて江見市之丞の守る鷹巣城3月中に攻略するなど快進撃続いたが、後藤勝基の守る三星城だけは容易ならざる見て岡山へと援軍要請して三星に近い位置勝間城を新たに築いたその後岡山から宇喜多詮家軍勢援軍として加わった三星城抵抗激しく途中景能自身戦傷を負わされる局面もあったものの5月には三星城攻略して勝基を自害追い込んだ(『美作太平記』)。

※この「浦上残党との戦い」の解説は、「延原景能」の解説の一部です。
「浦上残党との戦い」を含む「延原景能」の記事については、「延原景能」の概要を参照ください。

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