浦上キリシタン問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 02:35 UTC 版)
慶応3年(1867年)、長崎の浦上村の隠れキリシタンが、自らのキリスト教信仰を表明し、捕縛されるという事件が発生し(浦上四番崩れ)、河津は前任の長崎奉行である能勢頼文や徳永昌新からこの問題を引き継いだ。 河津は、信徒達の中で、ただ1人転宗を拒んだ高木仙右衛門を密かに立山の奉行所に呼び出し、2人だけで対話した。河津は仙右衛門に転宗を穏やかに諭したが、彼はそれには従おうとはしなかった。河津は、自分は仙右衛門を殺すために呼んだのではないと言い、キリスト教は良い教えであるが、今は信仰の許しが無い、御許しが出るまで心の中でのみ信仰するに留め、表立った信仰はしないように、と伝えた。しかし仙右衛門は、心の内でだけ信じることはかないませぬと返答した。河津はさらに、キリストの教えの良いことは、フランスに行った自分はよく知っている。しかし、今の情勢下では信仰を許すわけにはいかないので、今日は家に帰りよくよく考えて返事をするようにと述べ、仙右衛門に金3分を紙に包んで与えたという(『仙右衛門覚書』)。 しかし、この問題を解決する前に河津は長崎を脱出したため、浦上の信徒達の処遇は維新政府が決めることになった。
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