浦上氏の台頭と播磨奪回運動
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「赤松政則」の記事における「浦上氏の台頭と播磨奪回運動」の解説
赤松家が再興する過程において特に功績が高かったのは、政則の養育を務めた浦上則宗であった。政則の年齢を考えても再興前後の政治や命令の大半は則宗が実際に出して執行していた可能性も指摘されている。浦上氏は嘉吉の乱以前からの赤松家の重臣で、備前守護代や守護直属の奉行人を務めていた。浦上氏は政則没後に赤松家を下剋上で倒しているため守護代の典型と見なされているが、則宗の場合は単純な守護代ではなく守護直属の奉行人として、つまりは実務官僚として赤松家中でその立場と権勢を高めていき、幕府からも山城守護代や侍所所司代に任命されるなどしてその立場を形成していったのである。 寛正3年(1462年)10月、京都で大規模な土一揆が起こると、則宗を中心とする赤松軍は畠山政長に協力して鎮圧に功績を挙げたため、戦後に政則は8代将軍・足利義政より感状と太刀を与えられた(『長禄寛正記』)。寛正6年(1465年)11月、山城西岡で土一揆が起こると、則宗は京極氏に協力して鎮圧に貢献し、こうして赤松家は幼少の当主・政則を擁する奉行人・浦上則宗の両体制が確立していくことになる。同年12月26日、政則は義政の「政」の偏諱を授かり元服する。 赤松家旧本拠の播磨では、赤松家再興と共に赤松系浪人の動きが活発化しだした。寛正6年(1465年)6月12日には幕府がこの動きを危険視し、罪科を招きそうな播磨牢人衆の名前の注進を山名宗全に命じているほどで(『伊和神社文書』)、播磨国内における不穏分子、反山名勢力等が結集され始めていた。 文正元年(1466年)、細川勝元らにより義政の近臣であった伊勢貞親や禅僧の季瓊真蘂、斯波義敏らが政界を追われる文正の政変が起こると政則も失脚したが、勝元の支援を受けることで政界に復帰する。
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