浦上家臣時代
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天文年間末からの浦上政宗と宗景兄弟の分裂において終始宗景に味方した股肱の臣であり、以後宗景に重臣として仕える。永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部(いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時・服部久家・日笠頼房・岡本氏秀・明石行雄と景能の6人が行っている(『来住家文書』)。この時、6人の重臣の中で浦上宗景からの偏諱と思しき「景」の字を拝領していたのは景能のみであり、またこの6人の筆頭に名前が載せられていたのが景能であった。 天正2年(1574年)から主君・宗景と宇喜多直家の対立が激化し、天神山城の戦いが開戦した際には宗景を支持し、情勢不利となっても宗景と共に天神山城に籠り交戦していたが、やがて抗い切れないと悟ると宗景を見限り景能も直家に寝返った。この時、『天神山記』では景能が「逆臣の長」として名前が挙げられている。
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浦上家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 07:36 UTC 版)
備前国で浦上氏の家臣として浦上則宗の代から仕える備前明石氏の出身。父の名は源三郎景憲であるとも言われるが確証は得られておらず今のところは不明である。 天文年間末からの浦上政宗と宗景兄弟の分裂において『備前軍記』では終始宗景に味方した股肱の臣として挙げられており、以後宗景に重臣として仕える。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では浦上方として宇喜多直家への援軍として駆けつけ勝利に貢献したという。 永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部(いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時・服部久家・日笠頼房・岡本氏秀・延原景能と行雄の6人が行っている。永禄12年(1569年)には10月には美作国で毛利氏に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を岡本らと共に支援して高田城代・香川広景を攻撃した。 天正2年(1574年)から浦上宗景と宇喜多直家の対立が激化し、天神山城の戦いが開戦した際には宗景を支持し、情勢不利となっても宗景と共に天神山城に籠り交戦していたが、やがて抗い切れないと悟ると宗景を見限り天神山城に火を放った上で城内の一角を占拠し天神山城陥落のきっかけを作った。この時、行雄の裏切りが天神山陥落に絡んだことは毛利氏の記録でも確認できる。
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浦上家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:04 UTC 版)
享禄2年(1529年)、宇喜多興家の子として生まれた。一説に 備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城で生まれたとされるが、史料の裏付けはない。 浦上村宗の敗死による混乱の中で、享禄4年(1531年)(または天文3年(1534年))、祖父・能家が暗殺され、宇喜多氏の家督は大和守家に移り、直家は父・興家と共に放浪の人生を送ったというが、興家も島村氏との諍いで横死して没落していた。村宗の跡を継いだ浦上政宗と備前を任されたその弟宗景は山陽に侵略を繰り返す尼子氏への対応を巡って分離し国衆も二派に分かれて対立したが、直家は天神山城主・宗景に仕え、政宗派への攻撃を繰り返して頭角を現す。 軍記物では、直家は策謀に長けており、「祖父の復讐を果たすため」に島村盛実を暗殺したのを初め、舅である中山勝政や龍ノ口城主・穝所元常を殺害したとされている。いずれにせよ、直家は浦上宗景の直接の家臣というより傘下の国衆として勢力を拡大、その従属的同盟者となって政宗派を制圧し、大和守家も打倒して宇喜多氏の家督を奪回した。
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