浦上氏・美作三浦氏の滅亡とは? わかりやすく解説

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浦上氏・美作三浦氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:15 UTC 版)

天神山城の戦い」の記事における「浦上氏・美作三浦氏の滅亡」の解説

実質的な休戦状態であった浦上氏宇喜多氏であったが、4月についに宇喜多直家浦上久松丸奉じて宗景打倒名分掲げて再び兵を動かした4月12日天神山城支城1つある日笠頼房の守る日笠青山城攻略狙って宇喜多軍が兵を動かして城下野戦が行われたが、日笠勢はこれに勝利し原助十郎などを討って宇喜多軍を撃退した。しかし、5月1日には宇喜多軍が備前佐古谷城攻略し、またこの頃浦上方の伊部城主ある日源太花房職之討ち取られ伊部城が攻略された。5月8日には備中兵乱をほぼ片付けた毛利輝元備後衆の備前派遣検討しており、5月22日三村氏本拠松山城陥落して、城主元親が城を捨てた際には美作三浦頼って落ち延びたという予測小早川隆景立て美作攻め先鋒三村親成命じた6月2日三村元親自刃して果て6月7日には最後に残った三村拠点である常山城陥落し三村氏滅亡し備中兵乱終息した。 同年7月追い詰められ浦上宗景三浦との連絡絶たれ状況解消するべく、重臣岡本氏秀美作国人の中島隆重を派兵し宇喜多味方した美作弓削荘の領主である沼本久家沼本豊盛菅納家晴らの守る蓮花寺城・小松城などを攻略し三浦との連携回復させようとしたが、この戦いで浦上方は延原家次などが負傷させられるなど惨敗喫し、もはや反抗した小領主討伐する力も残されていない弱体ぶりを内外に晒け出す結果終わった以後浦上軍は国衆更なる離脱食い止められ防戦一方状況追い込まれついには本拠天神山城への籠城以外の選択肢を失う事となる。 そして同年8月頃より明石行雄(景親)を始めとして岡本氏秀・秀広親子延原景能大田原長時などこれまで浦上氏直轄部隊として抵抗続けていた天神山衆も相次いで浦上氏見限り9月上旬までには天神山城陥落し浦上宗景所領追われた。美作三浦貞広牧清冬から宇喜多家臣の江原久清を通じて宇喜多直家毛利への降伏周旋申し入れ9月11日本拠高田城明け渡し投降した。この戦いの結果宇喜多直家備前ほぼ全域美作東部播磨西部などに大きく所領拡大した

※この「浦上氏・美作三浦氏の滅亡」の解説は、「天神山城の戦い」の解説の一部です。
「浦上氏・美作三浦氏の滅亡」を含む「天神山城の戦い」の記事については、「天神山城の戦い」の概要を参照ください。

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