浦上氏・美作三浦氏の滅亡
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「天神山城の戦い」の記事における「浦上氏・美作三浦氏の滅亡」の解説
実質的な休戦状態であった浦上氏と宇喜多氏であったが、4月についに宇喜多直家が浦上久松丸を奉じて宗景打倒の名分を掲げて再び兵を動かした。4月12日、天神山城の支城の1つである日笠頼房の守る日笠青山城の攻略を狙って、宇喜多軍が兵を動かして城下で野戦が行われたが、日笠勢はこれに勝利し原助十郎などを討って宇喜多軍を撃退した。しかし、5月1日には宇喜多軍が備前佐古谷城を攻略し、またこの頃、浦上方の伊部城主である日笠源太が花房職之に討ち取られ、伊部城が攻略された。5月8日には備中兵乱をほぼ片付けた毛利輝元が備後衆の備前派遣を検討しており、5月22日に三村氏の本拠松山城が陥落して、城主元親が城を捨てた際には美作三浦を頼って落ち延びたという予測を小早川隆景が立て、美作攻めの先鋒を三村親成に命じた。6月2日に三村元親は自刃して果て、6月7日には最後に残った三村の拠点である常山城が陥落し、三村氏は滅亡し備中兵乱は終息した。 同年7月、追い詰められた浦上宗景は三浦との連絡が絶たれた状況を解消するべく、重臣の岡本氏秀や美作国人の中島隆重を派兵して宇喜多に味方した美作弓削荘の領主である沼本久家・沼本豊盛・菅納家晴らの守る蓮花寺城・小松城などを攻略し三浦との連携を回復させようとしたが、この戦いで浦上方は延原家次などが負傷させられるなど惨敗を喫し、もはや反抗した小領主を討伐する力も残されていない弱体ぶりを内外に晒け出す結果に終わった。以後の浦上軍は国衆の更なる離脱を食い止められず防戦一方の状況に追い込まれ、ついには本拠天神山城への籠城以外の選択肢を失う事となる。 そして同年8月頃より明石行雄(景親)を始めとして岡本氏秀・秀広親子や延原景能・大田原長時などこれまで浦上氏の直轄部隊として抵抗を続けていた天神山衆も相次いで浦上氏を見限り、9月上旬までには天神山城は陥落し浦上宗景は所領を追われた。美作の三浦貞広も牧清冬から宇喜多家臣の江原久清を通じて宇喜多直家に毛利への降伏の周旋を申し入れ、9月11日に本拠高田城を明け渡し投降した。この戦いの結果、宇喜多直家は備前ほぼ全域、美作東部、播磨西部などに大きく所領を拡大した。
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