三村軍先鋒隊の敗走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:11 UTC 版)
明善寺城の兵と挟撃するつもりでいた三村勢だが、直家の速攻により作戦が頓挫してしまう。そればかりか、三棹山(操山)付近まで進軍していた先鋒隊の庄元祐に、三棹山の山頂に布陣していた宇喜多勢の先鋒隊の明石行雄、戸川秀安、長船貞親、宇喜多忠家らの諸隊が火縄銃による攻撃を加えたため、庄軍は大混乱に陥りたちまち退却を始めた。 混乱の最中、庄元祐は50人程の旗本を指揮して踏みとどまり、討死覚悟で延原土佐守の軍勢に攻めかかった。一時、延原隊は浮き足立ったが、宇喜多忠家隊が庄の軍勢を側面から挟撃した。庄元祐は宇喜多の旗印を見て再度突撃を敢行するが劣勢となってやむなく退却、その途中に宇喜多方の能勢頼吉に討取られたとされる。しかし、庄元祐がこの戦いの後は毛利氏配下となって九州などで活躍したという文献も残っているため、宇喜多方の虚報ないし誤報であったと考えられる。
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