三村軍中軍の敗走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:11 UTC 版)
中軍を指揮していた石川久智は明善寺城落城と先鋒隊の敗走を知り、当初の作戦を変更せざるを得なくなり、老侍・中島加賀守を呼び軍議を始めた。中島加賀は旭川西岸に布陣し、川を渡河してくる宇喜多勢を迎え討つ作戦を具申、石川久智もその案に賛成したが、他の老臣達は従わず、個々に勝手な軍議を開いていた。 石川久智が作戦決定に手間取っている間に、宇喜多本隊の河本氏、対馬氏、花房職秀らの隊が3方面に分かれて攻め寄せた。久智はやむなく原尾島村中道にて備えを固め防戦することにした。 宇喜多勢本隊は石川勢先陣に鉄砲を撃ちかけつつ突撃し、河本、花房両隊は石川勢の左右に兵を展開し、頃合を見計らって石川勢を両側面から挟撃した。石川勢は3方向から攻撃を受け混乱し、軍勢を立直す間もなく中島城に向かって敗走を始めた。この時、中島加賀守をはじめ数多くの将兵が討取られた。 宇喜多勢は八幡村(現:岡山市中区八幡)付近まで追撃したが、石川勢はこの地で軍勢を立直し反撃を試みた。勝ちに乗じて攻め立てていた宇喜多勢は手痛い損害を被り、逆に敗走を始めた。先の戦闘で甚大な損害を被っていたため、久智は追撃を断念し撤退した。
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